ソードアートオンライン 外伝 4 絶剣 九里史生 「——アスナはもう聞いた? ゼッケンの話」  リズベットの声に、アスナはホロキーボードを打つ指を止めると、顔を上げた。 「ゼッケン? 運動会でもするの?」 「ちがうちがう」  リズベットは笑いながら首を振り、テーブルの上から湯気を立てるマグカップを取り上げて一口含むと、話を続けた。 「カタカナじゃなくて漢字。絶対のゼツに剣と書いて、絶剣」 「絶……剣。新実装のレアアイテムかなんか?」 「のんのん。人の名前よ。あだ名……というか、通り名かな。誰も本名は知らないんだけどね。あんまり強すぎるんで、誰が呼び始めたのか、ついた名前が絶剣。絶対無敵の剣、空前絶後の剣……そんな意味だと思うけど」  強い、と聞いて、アスナの好奇心は大いに刺激された。もとより剣の腕には大いに覚えのあるところだ。アルヴヘイム・オンラインのプレイヤーである今でこそ、後衛で回復魔法の詠唱が主任務となる水妖精——ウンディーネを種族として選択しているが、それでも時々昔の血がうずいて、腰のレイピアを抜いては敵陣に斬り込んでおお暴れしてしまうので、「バーサクヒーラー」などという優雅さとは縁遠い二つ名を頂戴してしまっている。  毎月開かれるデュエル大会にも積極的に参加して、ALOの三次元戦闘に慣れた今では火妖精族のユージーン将軍や風妖精族のサクヤ領主といった剛の者たちと肩を並べるにまでなっているので、新たなつわもの出現と聞いては無関心ではいられない。  書きかけの生物学のレポートをセーブし、ホロキーボードを消去すると、アスナはかたわらのマグカップを取り上げ、指先でワンクリックして熱いお茶を満たした。床から直接伸びる生木の椅子に深く座りなおし、本格的に話を聞く体勢に入る。 「それで……? その絶剣さんは、どんな人なの?」 「えっとね……」  新生アインクラッド第二十二層の深い森は、すっぽりと白い雪に覆われていた。  外の世界も一月初旬の冬真っ只中だが、近年とみに温暖化が進行していることもあり、東京では気温が零度を下回ることはほとんどない。現在建設が計画されている「都心第二階層」が数十年後に完成の暁にはほんものの雪が降ることすら無くなると聞く。  しかし、運営体のサービス精神の発露なのか、妖精の国アルヴヘイムではまさに厳冬と言うに相応しい気候が続いている。大陸の中央にある世界樹以北は、フィールドでの体感温度が零下一〇度、二〇度に下がることなどザラで、きちんとした防寒装備か、あるいは耐寒呪文の援護なしにはとても空を飛ぶ気にはなれない。  もっとも、小川の底まで凍りつくようなその寒気も、分厚い木壁に守られた部屋のなかまでは届かない。  二〇一五年五月の、アルヴヘイム・オンラインの大規模アップデート——『浮遊城アインクラッド』実装以降、アスナをゲームプレイに駆り立てたモチベーションはただひとつだった。  必要な額のコル、いやユルド硬貨を遮二無二貯めて、誰よりも早く第二十二層の転移門をアクティベートし、針葉樹林の奥にぽつりとたつログ造りのプレイヤーハウスを購入すること。無論、はるかな昔に存在したもうひとつの浮遊城で、たった二週間だけだが楽しく、甘く、切ない日々を送った、まさにその場所に建つ家である。  二十二層は森しかない過疎フロアだし、主街区の村にもプレイヤーハウスはいくつも用意されているし、よもや同じ家を狙うライバルはいないだろうと思っていた。それでも、キリトはもちろんリズベットやシリカ、リーファたちの手も借り、どうにか膨大な額の資金を用意して、自らの手で倒した第二十一層ボスモンスターのしかばねを蹴り飛ばすようにログハウスの前にたどり着き、購入ウインドウのOKボタンをクリックし終えたときには、思わずしゃがみこんで泣いてしまった。(その夜、パーティーが終わって客たちが皆帰ったあと、キリトと、元の少女態に戻ったユイと三人で祝杯のグラスを合わせたときも、もう一度大泣きした)  なぜこの場所にこれほどまで拘ったのか、その理由はアスナにもなかなか言葉にすることはできない。はじめて本気の恋した男の子と、仮想世界のなかでとは言え艱難辛苦ののちにようやく結ばれ、短かったが幸せな日々を過ごした場所だから、と言ってしまうのは簡単だが、それだけではない気がアスナはしている。  おそらく、この家は、現実世界において常に居場所を探していたアスナが、ついに見出した真の意味での『ホーム』だったのだ。つがいの鳥が翼を休め、身を寄せ合って眠るような、小さく暖かい場所。心の還る場所。  もっとも、苦労のすえ手に入れて以来、ログハウスはすっかり仲間たちの溜まり場になってしまって、来客の途切れる日はほとんど無い。アスナが精魂こめて内装した小さな家の居心地よさは、一度訪れた者を例外なく虜にしてしまうようで、SAO時代の仲間はもちろん、ALOで新しくできた友人たちも頻繁にやってきてはアスナの手料理に舌鼓を打っていく。——いちど、どうしたタイミングか、サクヤとユージーンが同席してしまったときはなかなかに緊張感あふれる食卓が出現したものだが。  今日——二〇一六年一月六日も、森の家のリビングルームに「生えた」樹のテーブルは、おなじみの面々で埋まっていた。  アスナの右隣にはシリカが座り、ホロウインドウ上に表示させた数式——冬休みの宿題に頭を捻りながらうなり声を上げている。左隣ではリーファが、同じく英文を睨んで顔をしかめている。  向かい側にはリズベットが座り、こちらは木苺のリキュール片手に椅子にふんぞりかえって脚を組み、ゲーム内で売っている小説に没頭しているようだった。  現実世界では午後四時ごろだが、窓の外はすでにとっぷりと日が暮れ、しんしんと降り積もる雪がランプの光を照り返していた。かすかな風鳴りの音を聞くまでもなく凍えるほどに寒そうだが、部屋の奥のペチカでは赤々と薪が燃え、その上の深鍋ではきのこのシチューがふつふつと湯気を上げて、暖かさとともにいい匂いを届けてくる。  アスナもホロキーボードに両手を置き、ブラウザ窓をいくつも宙に浮かべて(ALOのプレイヤーホームでは、オプション設定によってはゲーム外のネットにも接続できる)、そこに呼び出した資料に目を走らせながら、課題のレポートを順調に仕上げていた。  母親(もちろん現実の)は、アスナが現実世界でできることをVRワールドで済ませることにいい顔をしないが、長時間に及ぶ文章の入力などは、こちら側でやったほうが明らかに効率がいい。眼も手首も疲れないし、自室のモニタのUXGA解像度では不可能な数の資料窓をいくつも見やすい位置に浮かべておけるのだ。  いちど、母親にもそう言って、文章入力専用のアミュスフィア用アプリケーションを試させてみたことがあるのだが、ほんの数分で「眩暈がする」と言ってログアウトし、以来見向きもしなかった。  たしかに仮想世界酔いというものは存在するが、いまやダイレクトVRワールドネイティブであるとさえ言ってもいいアスナにとっては、こちら側の現実感はある意味では現実以上である。両手の指は一度のミスタイプもなく飛ぶように動き、エディタ上の文章は着々と結論へと近づいて——  と、そのとき、右肩にこつんと乗っかるものがあった。  見ると、シリカが、黒いショートヘアの頭をアスナの肩にもたれさせ、突き出た三角形の耳をぴくぴくさせながら、幸せそうな顔で寝息を立てている。  アスナは思わず微笑みながら、そっと左手の人差し指でシリカの猫耳をくすぐった。 「ほら、シリカちゃん。今寝ちゃうとまた夜眠れなくって困るよー」 「うにゅ……むにゃ……」 「冬休みもあと三日しかないんだよ。宿題がんばらないと」  耳をつんと引っ張ると、シリカはぴくんと体を震わせてから頭を起こした。ぼーっとした顔で何度か瞬きを繰り返し、頭をぷるぷる振ってアスナの顔を見る。 「う……うう……ねむいです」  呟きながら、小さな白い牙のある口を大きく開けて大きな欠伸をひとつ。アスナの知っている猫妖精族、ケットシーのプレイヤーたちはこの家にくると皆よく眠るので、ひょっとしてそういう種族的特性でもあるのかと疑いたくなる。  シリカの前のホロパネルを覗き込んで、アスナは言った。 「もうすぐそのページも終わりじゃない。がんばって、やっつけちゃおう?」 「ふ……ふぁい……」 「ちょっとこの部屋あったかすぎる? 温度下げようか?」  聞くと、今度は左隣で、リーファが笑いを含んだ声で言った。 「いえ、そーじゃなくて、アレのせいだと思いますよー」 「?」  振り向くと、リーファは黄緑色の長い髪を揺らして、部屋の奥、ペチカの向こうに視線を向けた。 「……ああ、ナルホド……」  その方向を見て、アスナは深く納得しながら頷いた。  赤々と燃える暖炉の前には、磨かれた木で出来た大きな揺り椅子がひとつ。  椅子に深く沈みこみ、白河夜船の体で眠りこけるのは、浅黒い肌に漆黒のつんつん髪を持つ影妖精族、スプリガンの少年だった。言うまでもなくキリトである。  彼の胸の上では、水色の羽毛を持つ小さなドラゴンが、これまた体を丸め、頭をふわふわのシッポに突っ込んで、心地よさそうに眠っている。ビーストテイマーであるシリカの、SAO時代からの相棒である小竜のピナだ。  そして、ピナの柔毛に包まれた体をベッドがわりに、さらに一回り小さな妖精があどけない寝顔を見せている。艶やかな濃紺のストレートヘア、白いワンピース姿の彼女は、キリト専用の「ナビゲート・ピクシー」でありまたアスナとキリトの「娘」でもある、その実体は旧SAOサーバーから突然変異的に生み出された人工知能のユイである。  キリトとピナとユイが三段の鏡餅のように積み重なり、揺り椅子の上で幸せそうに眠りこける有様は、一種魔力的と言ってもよい催眠効果を放射していて、数秒見つめるだけでアスナの目蓋もとろりと重くなってくる。  キリトというのが、実にまたよく眠る男なのだ。まるで、SAO時代寝る間も惜しんで迷宮区の攻略に明け暮れた貸しを今取り立てているとでも言うかのように、この家にいるときは、ちょっとでもアスナが目を離すとお気に入りの揺り椅子に倒れこんでぐうぐう眠ってしまう。  そして、揺り椅子の上のキリトの寝姿ほど、眠気を催させるものをアスナは知らない。  かつてSAOのなかに居たころは、森の家で、またエギルの店の二階で、キリトが椅子を揺らしていると、必ずといっていいほどアスナはその上に乗っかって、暖かいまどろみを共有したものだ。つまりアスナにとっても大いに身に覚えがあるところなので、シリカやリーファが眠気を誘われるのは理解できる。  しかし不思議なのは、至極単純なアルゴリズムで動いているはずのピナまでが、キリトが寝ているところに居合わせると、ご主人様であるシリカの肩からぱたぱた飛び立って、キリトの上でくるりと丸くなって眠ってしまうことだ。これはもう、寝ているキリトからはなんらかの「眠気パラメータ」が発生しているのではないかと疑いたくなる。実際、さっきまで頭をフル回転させてレポートを書いていたはずなのに、いつのまにか体がふんわりと…… 「ちょっとアスナさん、自分が寝てますよ! あっ、リズさんまで!」  シリカに肩をゆさゆさと揺すられ、アスナははっと顔を上げた。  同時に、テーブルの正面ではリズベットがびくんと体を起こし、ぱちぱち目をしばたかせてから照れくさそうに笑った。銀妖精族レプラホーンの特徴である、金属光沢のあるペールピンクの髪をかきあげ、言い訳のようにぶつぶつつぶやく。 「アレ見てるとなんでこう眠くなるのかねぇ……。ひょっとしてスプリガンの幻影魔法じゃないだろうなぁー」 「ふふ、まさか。眠気覚ましに、お茶淹れるね。と言っても手抜きだけど」  アスナは立ち上がると、背後の棚から、カップを四つ取り出した。最近のクエストで手に入れた、「クリックするだけで九十九種類の味のお茶がランダムに湧き出す」魔法のマグカップだ。  テーブルにカップと、お茶うけのフルーツタルトが並ぶと、ゲンキンに眠気を払拭したシリカも含めて、四人はさっそくそれぞれ異なる香りのする熱い液体を口元に運んだ。 「そういえば、さ」  リズベットが思い出したように言ったのは、その時だった。 「——アスナはもう聞いた? ゼッケンの話」    * * * 「うわさをよく聞くようになったのは、ちょうど年末年始のあたりだから……一週間前くらいからかなあー」  そう言うと、リズベットは何かを合点したかのようにちいさく頷きながらアスナを見た。 「そっか、じゃあアスナが知らないのも当然か。あんた年末からずっと京都だったもんね」 「もう、こっちにいる時に嫌なこと思い出させないでよリズ」  アスナが渋面をつくると、リズは大きな口をあけてあっはっはと笑った。 「いやー、イイトコのお嬢さんも大変だね」 「ほんと大変だったわよ。一日中着物で正座して挨拶ばっかりしてたし、夜に『潜ろう』にも母屋にはいまどき無線LANも入ってないんだよ。アミュスフィアもってったのに無駄になっちゃった」  ふう、とため息をついて、お茶をごくりと飲み干す。  アスナは、昨年末から両親、兄とともに、京都にある結城本家、つまり父親の実家になかば強制的に赴かされていた。アスナの、二年にわたる「入院」の間に親類筋には大いに心配をかけ、また世話になったからそのお礼を、と言われれば嫌とも言えない。  幼い頃は、年始を本家で過ごすのは当たり前のことと思っていたし、同年代のいとこたちに会うのも楽しみだった。  しかし、中学に上がった頃からだったろうか。アスナはだんだん、その恒例行事が気詰まりに思えるようになってしまった。  結城の本家というのは、誇張でなく二百年以上も前から京都で両替商を営んできた家で、維新や戦争の動乱にもしぶとく生き残り、現在では関西一円に支店を持つ地方銀行を経営している。父親の結城彰三が、一代でレクトという大電器メーカーを興せたのも本家の潤沢な資金援助があったればこそであり、親戚筋を見渡せば、社長だの官僚だのはごろごろ転がっているのだ。  当然のように、いとこたちは皆アスナや兄と同じような「いい学校」の「優等生」で、宴席で子供たちが行儀良く並んで座るとなりでは、親たちがうちの子は何の大会で表彰されただの、全国模試で何番を取っただのという話を、表面上は穏やかに、だが延々と応酬し続けるのである。自分を包み込む世界の「硬さ」に恐怖を覚えはじめていたアスナにとっては、毎年のその行事が、子供たち全員に序列を付け直す作業のように思えたのだった。  二〇一二年十一月、中学三年の冬にアスナはSAOに捕われ、二〇一五年の一月にキリトの手によって解放されたので、今年の年始の挨拶は実に四年ぶりということになる。本家の、京風数寄屋造りの広大な屋敷で、アスナはきつい振袖を着せられ、祖父、祖母をはじめ膨大な数の親類縁者に、しまいには自分が接客NPCに思えてくるほどに繰り返し挨拶をさせられた。  それでも、ひさしぶりにいとこたちと会えるのは嬉しいことだったのだが、アスナの無事なる帰還を我が事のように喜んでくれる彼ら彼女らの瞳のなかに、アスナは嫌なものを見つけてしまったのだった。  いとこたちは一様に、アスナを憐れんでいた。生まれたときから始まり、そしてまだ何年も続くレースから、早くも脱落してしまったアスナに同情し、可哀想だと思っていたのだ。考えすぎではない。子供のころからずっと人の顔色を窺い続けていたアスナには判る。  もちろん、今のアスナは、その頃の人格とは全く異なる存在だ。あの世界が、そして一人の少年が否応なくアスナを生まれ変わらせた。だから、いとこたちや、おじ、おばたちの憐憫も、アスナの心の表面を微風のように通過していったにすぎない。自分はまず第一に剣士であり、戦う人間である、それはあの世界が消えたいまでも変らないという信念がアスナの心を支えている。  しかし、その価値観は、VRMMOなどというものは害悪としか考えていないいとこたちにはまったく理解してもらえないだろう。そして、本家にいるあいだじゅう、ずっとどこか不機嫌だった母親にも。  いい大学に入り、いい就職をしなければという強迫観念はもう欠片もない。今の学校は好きだし、あと一年かけて、本当にやりたいことをじっくり探すつもりだ。もちろん、いっこ年下の男の子と現実世界でも家庭を持つのが最終目標であるのだが。  ——などと考えながら、アスナはにこやかに親戚たちのあれやこれやの詮索をやり過ごし続けたのだが、どうにも参ったのは、明日にはようやく東京に戻れるという晩に、はとこにあたるという二つ年上の大学生と屋敷の奥まった部屋で二人きりにされたことだった。  本家の銀行の専務だかの息子だというその男は、自分が何を専攻しており、もう就職が決定しているという銀行ではどのようなポストにつきどのように出世していくかということをひたすら喋りつづけ、アスナとしてははあそうですかと思いつつ笑顔で感心してみせるしかなかったのだが、引っかかるのはまるで周囲が示し合わせてアスナとその男を二人きりで残したように思えてならないことで、ことによるとそこには何か大人たちの胡散臭い意図が…… 「ちょっとアスナ、聞いてる?」  テーブルの下でリズベットにつま先をつつかれ、アスナはハッと物思いから復帰した。 「あ、ご、ごめん。ちょっとヤなこと思い出しちゃって」 「なあにそれ? 京都でお見合いでもさせられた?」 「…………」 「……なにひきつってるのよアンタ。……まさか……」 「ないない、なんにも無いわよ!」  アスナはぶんぶん首を振ると、空になったマグカップを再びクリックし、湧き出した怪しい紫色のお茶をごくごくと喉に流し込んだ。 「それで……強いって、その人はPKerなの?」 「んーん、デュエリストよ。セルムブルグのちょっと北にさ、でっかい樹が生えた観光スポットの小島があるじゃない。あそこの樹の根元に、毎日午後三時になると現われて、立ち合い希望プレイヤーと一人ずつ対戦すんの」 「へええー。大会とか出てた人?」 「や、まったくの新顔らしいよ。でもレベルは相当高そうだから、どっかからのコンバートじゃないかな。最初は、MMOトゥデイの掲示板に対戦者募集って書き込みがあってさ。ALO初心者のくせにナマイキだ、いっちょへこましたろう、って奴らが三十人くらい押しかけたらしいんだけど……」 「返り討ち?」 「全員、きれいにね。HPを三割以上削れた人はひとりもいなかった、ってゆーんだから相当だよね」 「ちょっと信じられませんよねー」  フルーツタルトをもぐもぐしながら、シリカが割って入った。 「あたしなんか、まともにエアレイドできるようになるまで半年くらいかかったんですよ。なのに、コンバートしたてであの飛びっぷりですからね!」 「シリカちゃんも対戦したの?」  アスナが訊くと、シリカは目を丸くして首をぶんぶん振った。 「まさか! デュエルを観戦しただけで勝てないのは確信しましたもん。ま、リズさんとリーファはそれでも立ち合ったんですけどね。ほんと、ちゃれんじゃーですよね」 「うっさいなあ」 「何事も経験だもん」  リズベットとリーファが口を尖らせて言うのを笑顔で聞きながら、アスナは内心で少々驚いていた。  もとより種族的に戦闘は不向きで、その上鍛冶スキルを優先的に上げているリズベットはまだしも、シルフ随一と言っていいエアレイドの達人であるリーファを空中戦で上回るとは只者ではない。しかもコンバートしたてで、などという話はもはや前代未聞と言っていい。 「それは本物っぽいねえ。うーん、ちょっとワクワクしてきたなあ」 「ふっふ、アスナはそう言うと思った。もう、月例大会の上位常連どころで残ってるのは、サクヤとかユージーンとかの領主やら将軍組だけなんだけど、あのへんは立場的に辻試合は難しいしねえ」 「でも、そんだけ強さを見せ付けちゃうと、もう対戦希望者なんていなくなっちゃったんじゃないの? 辻デュエルの負け経験値ペナルティって相当なもんでしょ?」 「それがそうでもないんです。賭けネタが奮ってるんですよ」  と、再びシリカ。 「へえ? なにかすごいレアアイテムでも賭けてるの?」 「アイテムじゃないんです。なんと、オリジナル・ソードスキルを賭けてるんですよ。すっごい強い、必殺技級のやつ」  アスナは思わず、キリトの癖を真似て、肩をすくめながらピュウと口笛を吹きたくなる衝動に駆られたが、どうにか我慢した。 「OSSかぁー。何系? 何連撃?」 「えーと、見たトコ片手剣系汎用ですね。なんとびっくり十一連撃ですよ」 「じゅーいち!」  今度こそ、反射的に唇を細めて高い音を鳴らしてしまう。  今は無き旧ソードアート・オンラインをSAOたらしめてした代表的なゲームシステム、それが「ソードスキル」である。  無数の系統の武器ごとに設定された「技」のことで、内容は一撃必殺の単発攻撃から疾風怒濤の連続攻撃まで様々だ。武器による通常攻撃と異なるのは、一度初動を開始すれば、脳神経直結環境技術の本来的な制約である通信ラグを無視して、技の出終わりまでシステムが最大速度で体を自動操縦してくれるという点である。副次的効果として攻撃中は派手なライトエフェクトとサウンドエフェクトを伴い、技の使用者は自分が超戦士となったかのような快感を味わうことができる。  アルヴヘイム・オンラインにおける、一連の大規模アップデートの一環として、新運営体はソードスキル・システムもほとんどオリジナルのままの形で実装するという大胆な決断をした。  つまり新生ALOは、戦闘システムに根幹からの大変革を加えられたことになる。これはさすがにプレイヤー達の間に大論議を巻き起こしたが、反対論者たちもいちどソードスキルを体験するとほとんどの者がその快感に魅せられてしまった。アップデートから半年以上が経過した現在でも、「空中機動」+「剣技」という新しい戦闘体系は、多くのユーザーコミュニティで日々活発な報告と議論の対象となっている。  さて、そのソードスキルだが、冒険心溢れる運営者たちは、先人の遺産をただそのまま拝借することを良しとしなかった。  そこで彼らが新要素として開発・導入したもの、それが「オリジナル・ソードスキル」システムだ。  その名のとおり、「独自の剣技」である。動きすべてがあらかじめ設定されている既存の剣技ではなく、プレイヤー自らが編み出し、登録することのできるソードスキル。  これが発表されたとき、多くのプレイヤー達は、「ド派手」で「かっこいい」自分だけの必殺技を手に入れようと、我先にとそれぞれの武器を振り回した。  そして一様に深い挫折を味わった。  オリジナルソードスキル略してOSSの登録手順は非常に単純だ。  まずウインドウを開き、OSSタブに移動し、剣技記録モードに入って記録開始ボタンを押す。その後、おもむろに武器を振り回し、技が終わった時点で記録終了ボタンを押す。それだけだ。  しかし、「ぼくのかんがえた必殺技」がソードスキルとしてシステムに認められるためには、非常に厳しい条件をクリアする必要があった。  |斬り《スラッシュ》と|突き《スラスト》の単発技は、ほぼ全てのバリエーションが既存の剣技として登録済みである。よって、OSSを編み出そうと思ったら、それは必然的に連続技とならざるを得ない。しかし、一連の動きにおいて、重心移動や攻撃軌道その他もろもろに無理がわずかにもあってはならず、また全体のスピードは、完成版ソードスキルに迫るものでなくてはならない。  つまり、本来システムアシストなしには実現不可能な速度の連続技を、アシストなしに実行しなくてはならないという、矛盾とさえ言っていいほどの厳しい条件が課せられているのだ。  そのハードルをクリアする方法は只ひとつ、気が遠くなる回数の反復練習あるのみである。一連の動きを、脳のシナプスが完全に覚えこむまで。  本来そういう地味な鍛錬が苦手な傾向のあるVRMMOプレイヤー達は、そのほとんどがあっけなく「俺必殺技」の夢を放棄してしまった。それでも、一部の努力家たちがOSSの開発・登録に成功し、中世の剣術流派開祖にも似た栄誉を手にすることになった。  実際、一部のプレイヤーは「○○流」という名のギルドを興し、街に道場を開くに至っている者すらいる。  それを可能にしたのが、OSSシステムに付随する「剣技伝承」システムだ。  つまり、OSSを編み出すことに成功したものは、一代コピーに限って、技の「秘伝書」を他のプレイヤーに伝授することができるわけだ。  OSSは、対プレイヤーはもちろん、対モンスターにも絶大な効果を発揮する。それゆえ皆が欲する。いきおい技の伝承は非常に高額な代償を必要とするようになり、五連撃を超えるような「必殺技」の秘伝書はALO世界で最も高価なモノとなりつつある。現在一般に知られているなかで、最も強力なOSSは、サラマンダー将軍のユージーンが編み出した『ヴォルカニック・ブレイザー』八連撃であるが、金には困らない立場のユージーンはこれを誰にも伝承させていない。一応アスナ自身も数ヶ月の苦労の果てに六連撃技の開発に成功しているが、それですっかり気力を使い果たし、新しい技に取り掛かる気には当分なりそうもない。  そのような状況のなかに登場したのが、破格の十一連撃技をひっさげた謎の剣豪『絶剣』、というわけなのである。 「まあ、そういうことなら対戦希望者が殺到するのも納得だね。みんなはそのソードスキル、実際に見たの?」  アスナの問いに、三人はそろって首を振った。代表して、リズベットが口を開く。 「んーん、なんでも、辻デュエルを始めた初日のいちばん最初に、演舞として披露したらしいんだけど、それっきり実戦では使ってないみたいね。……というか、OSSを使わせるほど絶剣を追い詰められた人はまだ誰もいない、って言うか」 「リーファちゃんでも無理だったの?」  尋ねると、リーファはしゅんと肩を落として首を振る。 「お互い、HPが六割切るくらいまではいい勝負だったんですけど……結局最後までデフォルト技だけで押し切られちゃいました」 「へええ……。——そう言えば、肝心なことな何も聞いてなかった。種族とか、武装は? どんなの?」 「あ、インプですよ。武器はレイピアですけど、アスナさんの剣よりもうすこし重いかな。——ともかく、速いんです。通常攻撃もソードスキル並みのスピードで……動きが目でも追えないくらいでしたよ。あんなこと初めてですよ、すごいショック」 「スピード型かー。リーファちゃんにも見えないんじゃ、わたしも勝機ナシかな。……——あ」  そこまで言ってから、アスナはようやく重要なことを思い出した。 「動きのスピードと言えば、反則級のヒトがそこで寝てるじゃない。キリト君は? そういう話、興味持ちそうだけど」  言うと、リズベット、シリカ、リーファは互いに目を見交わし、いきなりプッと吹き出した。 「——な、なに、どうしたの?」  あっけに取られるアスナに向かって、リーファがくすくす笑いながら、衝撃的なことを口にした。 「ふふふ。——もう戦ったんですよ、お兄ちゃん。そりゃもう、きれーに負けました」 「ま……」  負けた。あのキリトが。  アスナは口をぽかんと開け、そのままたっぷり数秒間にわたって固まった。  剣士としてのキリトは、アスナのなかでは最早「絶対的強者」という名の観念的存在となっていると言っても過言ではない。SAO、そしてALOの二世代を通して、一対一のデュエルでキリトを破ったのはアスナの知る限り血盟騎士団々長ヒースクリフ唯一人であり、それすらもゲームマスターとしてのシステム的優遇措置に助けられた結果である。  リズベット達には喋ったことは無いが、実はアスナ自身もSAO時代に一度だけ、キリトとギリギリの本気デュエルで剣を交えたことがある。  まだ知り合って間もない、アスナがKoB副長として最前線攻略の指揮を取っていた頃の話だ。  あるフロアの強力なボスモンスターの攻略方針を巡って、KoB以下の最速攻略優先派ギルドと、キリト以下数人のソロプレイヤーが対立したことがあった。両者の主張は平行線のまま妥協点を見出すことが出来ず、最終的に双方の代表によるデュエルで結論を出すことにしたのだ。  アスナはその頃すでに、内心ではキリトに惹かれつつあったのだが、まだその気持ちを打ち消そうという気分も大きかった。個人的な感情が、ゲームクリアという大義に優先することは許されないと思っていたのである。  デュエルは、自分のなかの柔弱な心を打ち消すいい機会だとアスナは考えた。キリトを倒し、ボスモンスターをきっちり効率的に討ち取ることで、ふたたび冷徹な自分に戻れるだろうと。  しかしアスナは、キリトという一見頼り無さそうな剣士の隠された実力を知らなかった。  デュエルは熱戦の名に相応しいものだった。剣を打ち交わすうちに、アスナの脳裏からすべてのしがらみは吹き飛び、ただ好敵手と戦うことのよろこびだけが全身にあまねく満ち溢れた。かつて体験したことのない次元での、直接脳神経パルスを交感するかのような戦闘はおよそ二十分にも及んだのだが、その時間すらも意識することはなかった。  そしてアスナは敗れた。全身全霊の気合を乗せた突きを、およそ人間技とは思えない反応で回避され、直後にレイピアはアスナの右手から弾かれて空高く舞った。  結局、そのデュエルを経験することによって、逆にアスナの恋心は打ち消しようのないものになってしまったのだが、同時にキリトの剣はアスナのなかにもうひとつの印象を深く刻んでいった。  ——最強の剣士。その確信は、SAO時代の「キリト」というキャラクターデータが消滅した今でも、わずかにも薄れてはいない。  ゆえにアスナは、キリトが「絶剣」に敗れたという話に、戦慄すら伴う衝撃を受けたのである。  アスナはリーファからリズベットに視線を移すと、掠れた声で聞いた。 「キリトくんは……本気だったの?」 「う〜〜〜ん……」  リズベットは腕組みをすると眉をしかめた。 「こう言っちゃなんだけど、あの次元の戦闘になると、あたし程度じゃ本気かそうでないかなんて判らないんだよね……。まあ、キリトは二刀じゃなかったし、そういう意味じゃ全力ってことにはならないんだろうけど。それに、さ……」  リズベットはふと言葉を切ると、暖炉の炎を映して煌めく瞳を、眠るキリトに向けた。その口もとに、穏やかな微笑が浮かぶ。 「あたし、思うんだ。たぶん、もう、正常なゲームの中じゃ、キリトがほんとのほんとに本気で闘うことは無いんじゃないかな、ってさ。逆に言えば、キリトが本気になるのはゲームがゲームじゃなくなった時、バーチャルワールドがリアルワールドになった時だけ……だから、アイツが本気で闘わなきゃならないようなシーンは、もう来ないほうがいいんだよ。ただでさえ厄介な巻き込まれ体質なんだから」 「…………」  アスナは、ちくりとする胸の痛みを意識しながら、リズベットの言葉にこくんと頷いた。 「ン……。そうだね」  両隣で、リーファとシリカもそれぞれの感慨を込めながらゆっくりと首を動かす。  しばし訪れた沈黙を破ったのはリーファだった。 「——でも、あたしが感じた限りではですけど……お兄ちゃん、真剣だったと思いますよ。少なくとも、手を抜いてたってことはまったく無いと思います。それに……」 「……なあに?」 「確信はないんですが、勝負が決まるちょっと前、鍔迫り合いで密着して動きが止まったとき、お兄ちゃん何か喋ってたような気がするんですよね……。そのすぐ後、二人が距離を取って、絶剣さんの突進攻撃をお兄ちゃんが回避しきれないで決着したんですが……」 「ふうん……何話してたんだろ?」 「それが、聞いても教えてくれないんですよね。何かありそう……な気はするんですけどねえ」 「そっか。じゃあ多分、わたしが聞いてもだめだろうなあ。あとはもう、直接闘ってみるしかない、かな」  アスナが呟くと、リズベットが眉を上げた。 「やっぱり闘う気?」 「勝てるとは思わないけどねー。なんだかその絶剣ってヒト、何か目的があってALOに来たような気がするんだ。辻デュエルすること以外にね」 「うん、それはあたしも思った」 「ともかく、明日セルムブルグに行ってみるよ。付き合ってくれる?」  くるりと見回すと、リズベット、シリカ、リーファは同時に頷いた。シリカがシッポをぴんぴん振りながら言う。 「もちろんですよ! こんな名勝負見逃せません」 「勝負になるかどうかわかんないけど……じゃ、決まりね。午後三時に現われるんだっけ、なら二時半にここで待ち合わせしよう」  ぽん、と両手を合わせてから、アスナはウインドウを出し、現実時間窓に目を走らせた。 「いけない、もう六時か。晩御飯遅れちゃう」 「じゃ、今日はここでお開きにしましょう」  リーファが自分の前のウインドウをセーブし、ぱぱっと片付ける。三人がそれにならうあいだに、リーファは揺り椅子に歩み寄ると、背もたれを掴んでがっこがっこと派手に揺らした。 「ほら、お兄ちゃん起きて! 帰るよー!」  その様子を微笑しつつ見やりながら、アスナはふとあることに思い至り、リズベットに顔を寄せた。 「ねえ、リズ」 「なに?」 「さっき、絶剣はコンバートプレイヤーだろう、って言ったけどさ……。それだけ強いなら、可能性としては、もしかすると……元SAOプレイヤー、って線もあるんじゃないの?」  小声で尋ねると、リズは真剣な表情を作り、小さく頷いた。 「うん。あたしもまずそれを疑ったんだ。で、キリトが絶剣と闘ったあと、どう思うか訊いてみたんだけどさ……」 「キリト君は、何て……?」 「絶剣がSAOプレイヤーだった可能性は、まず無いだろう、って。なぜなら……」 「…………」 「もし絶剣があの世界にいたなら、二刀流スキルは、俺でなくあいつに与えられていたはずだ、って」  チチッ  という短い電子音とともに、アミュスフィアの電源が落ちた。  薄っすらとまぶたを持ち上げる。同時に、湿った冷気が肌にまとわりつくのを、明日奈は感じた。  エアコンを弱暖房運転にセットしておいたのだが、タイマーを解除するのを忘れてダイブ中に停止してしまったらしい。十畳の少し広すぎる部屋の温度は、完全に外気と熱平衡に達している。かすかな音に気付いて大きな窓に目を向けると、黒いガラスに無数の水滴が張り付いていた。  明日奈は身震いしながら、ベッドの上でゆっくりと体を起こした。サイドボードに埋め込まれた統合操作パネルに指を伸ばし、タッチセンサーを一度叩く。それだけで、軽いモーター音とともに二箇所の窓のカーテンが閉まり、エアコンが息を吹き返し、天井の隅のライトパネルがややオレンジがかった光を灯す。  レクト家電部門が開発した、最新のパッケージング・インテリア技術が明日奈の部屋にも使われている。入院中にいつのまにか部屋がリフォームされていたのだが、明日奈はなぜかこの便利な仕掛けが好きになれない。ウインドウひとつで部屋中のものが操作できるのは、VRワールドでは当たり前のことだが、それが現実世界に出現すると、どこか薄ら寒いものを感じさせるのだ。壁や床のいたるところに張り巡らされたセンサー類の、無機質な視線をどうしても肌に意識してしまう。  あるいはそう感じるのは、何度か訪れたことのあるキリト——和人の家が伝統的な和風家屋で、あの暖かみと自宅の冷たさをつい対比してしまうからかもしれない。母方の祖父母の家もちょうどあんな感じだった。夏休みに遊びにいったときは、陽光の降り注ぐ縁側に座って足をぶらぶらさせながら、おばあちゃんが作ってくれたかき氷を食べたものだ。その祖父母はすでに鬼籍に入り、家も取り壊されてしまって久しい——。  小さくため息をつきながら、明日奈はスリッパに足を突っ込み、立ち上がった。途端、かすかに立ちくらみを感じて、じっと俯く。現実の重力がずしりと全身を引き寄せるのを強く意識する。  無論、仮想世界の中でも同じだけの重力感覚はシミュレートされている。だが、あの世界のアスナはいつでも軽やかに地を蹴り、体と魂を空に解き放つことができる。現実世界の重力というのは、単なる物理的な力ではない。どうしても振りほどくことのかなわない、様々な事象の重さが含まれている。再びベッドに倒れこんでしまいたい誘惑に駆られるが、すぐに夕食の時間だ。一分でも遅れれば、母親の小言のネタがひとつ追加されてしまう。  重い足をひきずるようにクローゼットの前に移動すると、手を伸ばすまでもなく、扉が折りたたまれながらスライドした。ゆったりした厚手のスウェットの上下を脱ぎ、何かに反抗するかのように床に放り投げる。染みひとつない白のブラウスと、ダークチェリーのロングスカートに着替え、隣のドレッサーのスツールに腰を下ろすと、またしても自動で三面鏡が展開し、上部の明るいライトが点灯する。  母親は、家の中でも明日奈がいいかげんな格好をしているのを好まない。ブラシを手にとり、ダイブ中に乱れた長い髪を手早く整える。  ふと、今ごろ川越の桐ヶ谷家ではどのような光景が繰り広げられているだろうか、と明日奈は考えた。  今日は和人と二人で食事当番なのだと直葉は言っていた。まだ寝惚け眼の和人を、直葉が階下に引き摺っていく。二人で台所に並び、直葉が包丁を使う隣で和人が魚を焼く。そのうちに母親の翠さんが帰ってきて、テレビを見ながらビールの晩酌を始める。賑やかな応酬のあいだにも次第に料理が出来上がり、テーブルに並ぶと、三人揃っていただきますを言う。  震える息を大きくひとつ吐いて、明日奈はこぼれそうになった涙をこらえた。ブラシを置き、立ち上がる。  自分の部屋から薄暗い廊下に一歩出ると、ドアを閉める直前に、背後で照明が勝手に落ちた。  半円を描く広い階段を降り、一階ホールに出ると、ハウスキーパーの佐田明恵がちょうど玄関のドアを開けようとしているところだった。夕食の用意を済ませ、帰宅するところだろう。  四十代前半の小柄な女性に向かって、明日奈はぺこりと頭を下げた。 「お疲れ様です、佐田さん。毎日ありがとう。遅くまで御免なさいね」  言うと、明恵は滅相もない、というふうに目を丸くして首を振り、直後深々と一礼する。 「と、とんでもないです、お嬢様。仕事ですので」  明日奈でいい、と言っても無駄なのはこの一年で思い知っている。かわりに歩み寄ると、小声で尋ねた。 「母さんと兄さんはもう帰ってます?」 「浩一郎様はお帰りが遅くなるそうです。奥様はもうダイニングにいらっしゃいます」 「……そう、ありがとう。引き止めてごめんなさい」  明日奈がもう一度会釈すると、明恵は再び深く腰を折り、重いドアを開けてそそくさと帰っていった。  彼女には確か中学生と小学生の子供がいるはずだ。家は同じ世田谷区内だが、今から買い物をして帰宅すると、七時半を回ってしまうだろう。食べ盛りの子供には辛い時間だ。一度、母親にそれとなく、夕食は作り置きしてもらってもいいじゃないと言ってみたことがあるのだが、一顧だにされなかった。  三箇所のドアロックが掛かる金属音を聞きながら、明日奈はきびすを返し、ホールを横切ってダイニングルームへと向かった。  重厚なオーク材のドアを開けた途端、静かだがびんと張った声が明日奈の耳を叩いた。 「遅いわよ」  ちらりと壁の時計を見ると、六時半ちょうどである。だがそのことを口にする前に、再び声が飛んでくる。 「五分前にはテーブルに着くようにしなさい」 「……ごめんなさい」  低い声で呟きながら、毛足の長いカーペットを踏んで、明日奈はテーブルへと歩み寄った。視線を伏せたまま、背もたれの高い椅子へと腰を下ろす。  二十畳はあろうかというダイニングルームの中央に、十二脚の椅子を備えた長いテーブルが設えてある。その北東の角から二番目が明日奈の席と決まっている。左隣が兄・浩一郎の椅子であり、東端が父・彰三の椅子だが、今は両方とも空いている。  そして、明日奈の左斜め向かいの椅子に、母親の結城京子が座し、お気に入りのシェリー酒のグラスを片手に、ポータブル端末に視線を落としていた。  女性としてはかなりの長身だ。痩躯だが、しっかりした骨格のせいで華奢というイメージはない。艶やかなダークブラウンに染められた髪を左右に分け、あご下の線でぴしりと切り揃えている。  顔立ちは、整ってはいるものの、鋭い鼻梁とあごのライン、そして口もとに刻まれた短く深い皺が冷厳な印象を拭いがたく与えている。もっともそれは本人が望んで作り上げたイメージかもしれない。鋭い舌鋒と辣腕の政治力で学内のライバルたちを蹴落とし、昨年四十九歳にして教授の座に着いた人物なのだ。  明日奈が席に着くと、京子は顔を上げないまま端末を片付け、ナプキンを広げて膝に置いた。ナイフとフォークを取り上げたところで、ようやく明日奈の顔をちらりと見る。  今度は明日奈が視線を伏せ、いただきます、と呟いてスプーンを手に取った。  しばらく、銀器が立てるかすかな音だけがダイニングに響いた。  ブルーチーズ入りのグリーンサラダ、そら豆のポタージュ、白身魚のグリルにハーブのソース、全粒粉のパン、エトセトラ……といったメニューだ。毎日の食事はすべて京子が栄養学的に計算し、決めたものだが、勿論調理したのは彼女ではない。  いつの頃から、母親とふたりだけの食卓が、こんなに緊張感に満ちたものになってしまったのだろう、と考えながら明日奈は手を動かした。  いや、あるいはずっと昔からこうだったのかもしれない。スープをこぼしたり、野菜を残したりすると手厳しく叱責された記憶がある。昔の明日奈は、賑やかな食卓というものを知らなかっただけなのだ。  機械的に食事を続けながら、記憶のかなた、異世界の我が家へと意識が彷徨いそうになった時、京子の声が明日奈を引き戻した。 「……またあの機械を使ってたの?」  明日奈はちらりと母親に視線を向け、小さく頷いた。 「……うん。みんなと宿題する約束があったから」 「そんなの、ちゃんと自分の手でやらないと勉強にならないわ」  自分の手でやっていることに代わりはないのだ、と言っても京子には理解してもらえないのは明らかだ。明日奈は俯いたまま、違うことを言う。 「みんな、住んでるとこが遠いの。あっちでなら、すぐに会えるのよ」 「あんな機械使っても会ってることにはならないわよ。だいたい、宿題なんて一人でやるものです。友達と一緒じゃ遊んじゃうだけだわ」  シェリー酒のグラスを傾け、京子は舌の速度をさらに上げる。 「いい、あなたには遊んでる余裕なんてないのよ。他の子より二年も遅れたんだから、二年分余計に勉強するのは当たり前でしょう」 「……勉強はちゃんとしてるわ。二学期の成績通知表、プリントして机に置いておいたでしょう?」 「それは見たけど、あんな学校の成績評価なんてあてになりませんよ」 「あんな……学校?」 「いい、明日奈。三学期は、学校のほかに家庭教師を付けるわ。最近はやってる機械越しのじゃなくて、ちゃんと家に来て見てもらいます」 「ちょ……ちょっと待ってよ、そんな急に……」 「これを見てちょうだい」  京子は有無をいわせぬ口調で明日奈の抗議を遮ると、テーブルから端末パネルを取り上げた。差し出されたそれを受け取り、明日奈は眉をしかめて画面に目を走らせる。 「……なにこれ……。編入試験……概要?」 「お母さんのお友達が理事をしてる高校の、三年次への編入試験を、無理を言って受けられるようにしてもらったのよ。あんな寄せ集めの学校じゃなくて、ちゃんとした高校です。そこは単位制だから、あなたなら前期だけで卒業要件を満たせるわ。そうすれば、九月から大学に進学できるのよ」  明日奈は唖然として京子の顔を見つめた。端末をテーブルの上に戻し、右手を小さく上げて、尚も言い募ろうとする京子の言葉を遮る。 「ま、待って。困るよ、そんなこと勝手に決められても。わたし、今の学校が好きなの。いい先生も沢山いるし、勉強はあそこでもちゃんとできるよ。転校なんて必要ないわ」  どうにかそれだけ言うと、京子はこれみよがしなため息をついた。目蓋を閉じ、金縁の眼鏡のブリッジ部分を指先で押さえながら、椅子の背もたれに体を預ける。この間の取り方も、京子一流の、常に己の優位を相手に意識させつづけるための話術の一環だ。教授室のソファーでこれをやられた男性はさぞ萎縮することだろう。夫の彰三ですら、家のなかでは京子との意見対立を極力避けているように見える。 「……お母さん、ちゃんと調べたのよ」  京子は諭すような調子で話しはじめた。 「あなたの通っているところは、とても学校とは言えないわ。いいかげんなカリキュラムに、レベルの低い授業。教師だって寄せ集めで、まともな経歴のある人はほとんどいないじゃない。あれは教育機関と言うよりも、矯正施設とか、収容施設とか言ったほうがいい場所だわ」 「そ……そんな言い方……」 「事故のせいで教育が遅れてしまった生徒の受け皿なんて体のいい事を言ってるけど、あの学校は、ほんとうのところは、将来的に問題を起こすかもしれない子供を一箇所に集めて監視しておこうっていう、ただそれだけの場所なのよ。それは確かに、おかしな世界でずっと殺し合いをしてた子供もいるそうだから、そういう施設は必要かもしれないけれど、でもあなたまでそんなところに入ることはないのよ」 「…………」  あまりに一方的な言葉をぶつけられ、明日奈は口を開くこともできない。痺れたような思考の奥底で、一瞬、すべてを吐露してしまおうかという衝動が頭をもたげる。わたしもその殺し合いをしてきたのだ、この手で人ひとりの命を奪ったのだ、と。そしてそのことを、わたしは一片も悔いていないのだ、と。 「あんなところに通ってても、まともな進学なんてできるわけないわ」  明日奈の葛藤に気付く様子もなく、京子は早口で話し続ける。 「いい、あなたは今年でもう十九になるのよ。でも、今のところにいたんじゃ、大学に入れるのがいつになるか判ったもんじゃない。中学の時のお友達は、今ごろみんな受験の真っ最中だわ。少しは焦る気持ちがないの?」 「進学なんて……何年遅れたって、たいした問題じゃないわ。それに、大学に行くだけが進路じゃないし……」 「いけません」  京子は明日奈の言葉をにべもなく否定した。 「あなたには能力があるの。それを引き出すために、お母さんとお父さんがどれくらい心を砕いてきたかあなたも知ってるでしょう。なのに、あんなおかしなゲームに二年も無駄にさせられて……。平凡な子供なら、お母さんだってこんなこと言いませんよ。でも、あなたはそうじゃないでしょう? 与えられた才能を十全に生かさず、腐らせてしまうのは罪だわ。あなたは立派な大学に行って、一流の教育を受ける資格と能力がある。ならそうすべきです。省庁や企業に入って能力を生かすもよし、大学に残って学究の道に進むもよし、お母さんもそこまでは干渉しません。でも高等教育を受ける機会すら放棄することは許さないわよ」 「先天的な才能なんてものはないわ」  明日奈はどうにか、京子の長口上の接ぎ穂に言葉を割り込ませた。 「人の生き方なんて、今ある自分が全てでしょう? わたしも昔は、いい大学に入っていい就職をすることが人生のすべてだと思ってた。でも、わたしは変わったの。今はまだ答えは出せないけど、本当にやりたいことが見つかりそうなのよ。今の学校にあと一年通って、それを見つけたいの」 「自分で選択肢を狭めても仕方ないでしょう。あんなところに何年通っても、何の道も開けないわ。でも、編入先の学校は違うわよ。上の大学は名門校だし、そこでいい成績を残せば、お母さんのところの大学院にだって入れるわ。いい、明日奈。お母さんは、あなたに惨めな人生を送ってほしくないの。誰にでも胸を張って誇れるキャリアを築いてほしいのよ」 「わたしのキャリアって……それなら、あの人はなんなの? 本家で引き合わされた……何を吹き込んだのか知らないけど、あの人もうわたしと婚約でもしたような口ぶりだったわよ。わたしの生き方の選択肢を狭めてるのは母さんじゃない」  明日奈は自分の声がわずかに震えるのを抑えられなかった。視線に精一杯の力をこめたが、京子は動じる様子もなくグラスに唇をつける。 「結婚もキャリアの一部よ。物質的に不自由のあるような結婚をしてしまったら、五年、十年先に後悔するわ。あなたの言うやりたい事だって、できなくなっちゃうわよ。その点、裕也君なら申し分ないわ。今時、大手の都市銀行よりも地盤のしっかりした地方銀行のほうが安心だしね。お母さんは裕也君を気に入ったわよ。素直ないい子じゃない」 「……何にも反省してないのね。あんな事件を起こして、わたしと大勢の人を苦しめて、レクトの経営を危くしたのは、母さんが選んだ須郷伸之なのよ」 「やめてちょうだい」  京子は盛大に顔をしかめ、煩い羽虫でも払うように左手をぱたぱたと振った。 「あの人の話は聞きたくもないわ。……だいたい、あの人を気に入って養子にしようって言い出したのはお父さんですよ。人を見る目がないのよ、昔から。大丈夫よ、裕也君はちょっと覇気のないところがあるけど、そのぶん安心できるじゃない」  たしかに、明日奈の父彰三は、ずっと以前から身近な人間をあまり顧みないところがあった。会社の経営だけに注力し、社長職を退いた今も、海外資本との提携を調整するためにまったく家に帰らない日々が続いている。須郷の開発・経営能力と上昇志向のみを評価し、内部の人間性に目を向けなかったのは自分の不徳だったと、彰三本人も口にしていた。  しかし、須郷伸之が、中学生の頃から徐々に攻撃的な性格を強めていったのは、周囲から与えられる苛烈なプレッシャーに原因の一端があったのだと明日奈は思う。そして、その圧力の一部には、間違いなく京子の言葉も含まれている。  明日奈は苦いものを飲み下しながら、硬化した声で言った。 「——ともかく、あの人とお付き合いする気はまったく無いわよ。相手は自分で選ぶわ」 「いいわよ、あなたに相応しい、立派な人なら誰でも。言っておきますけど、あんな子——あんな施設の生徒は含まれませんからね」 「…………」  京子のその言い方に、特定の人物を指し示すような響きを感じて、明日奈は再度唖然とした。 「……まさか……調べたの? 彼のこと……」  掠れた声で呟いたが、京子は否定も肯定もせず、さらりと会話の方向を逸らした。 「わかってちょうだい、お母さんもお父さんも、あなたに幸せになってほしいのよ。あなたが幼稚園の頃から、ずっとそれだけを願ってきたの。ほんのちょっと躓いちゃったけど、まだまだじゅうぶん立て直せるわ。いま、真剣に頑張ればね。あなたなら、輝かしいキャリアを積み重ねられるのよ」  わたしではなく、母さんのでしょう、と明日奈な胸の奥で呟いた。  明日奈や兄の浩一郎は、京子自身の輝かしいキャリアの一要素なのだ。浩一郎は一流大学に進み、レクトに就職してからも着実に実績を残し、京子を満足させた。明日奈もそれに続くはずが、SAO事件などというわけのわからないものに巻き込まれ、また直後に須郷が起こした事件でレクトの企業イメージも低下し、京子は自分のキャリアに傷がついたと感じているのだ。  明日奈はこれ以上言葉を戦わせる気力を失い、まだ半分近く残っている皿の横にフォークとナイフを置いて立ち上がった。 「……編入のことは、しばらく考えさせて」  どうにかそれだけ言ったが、京子の答えは無味乾燥なものだった。 「期限は来週中ですからね。それまでに必要事項を記入して、三通プリントしてデスクに置いておいてちょうだい」  明日奈は俯き、振り向いてドアに向かった。そのまま部屋に戻ろうと思ったが、胸の奥にわだかまるものを抑えられず、廊下に一歩出たところでテーブルの京子に向かって言った。 「母さん」 「……なに?」 「母さんは、亡くなったお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのことを恥じてるのね。米農家じゃなくて、由緒ある名家に生まれなかったことが不満なんでしょう?」  京子は一瞬あっけに取られたように目を丸くしたが、すぐにその眉間と口もとに深く険しい谷が刻まれた。 「……明日奈! ちょっとここに来なさい!」  鋭い言葉が飛んできたが、明日奈は重いドアを閉めて、その先を遮った。  逃げるような早足で階段をのぼり、自分の部屋のドアを開けた。  途端、センサーの目が明日奈を捉え、照明とエアコンが自動的に点いた。  明日奈は耐えがたい苛立ちを感じ、まっすぐにサイドボードに歩みよると、部屋の統合制御AIを完全に停止させた。そのまま体をどさりとベッドに投げ出し、高価なブラウスが皺になるのもかまわずに大きなクッションに顔を埋める。  泣くつもりはなかった。剣士として、悲しい涙、悔しい涙はもう流さないと決めていた。しかし、その決意すらも、胸を塞ぐやるせなさを果てしなく増幅させていくようだった。  何が剣士だ、と心のどこかで嗤う声がする。たかがゲームの中で、ポリゴンの剣を少しばかり上手く振り回せるからといって、それが現実世界にどれほどの力を及ぼせるというのか。明日奈は歯を噛み締め、自分に向かって問いかける。  あの日、あの世界で一人の少年に出会って、自分は変わったはずだった。誰かに与えられた価値観に盲従することはもうやめて、本当になすべきことのために戦える人間になったはずだった。  しかし、外側から見たとき、今の自分はあの世界に赴く以前とどこが違うというのだろう。親類たちの前では飾り物の人形のように空疎な笑みを浮かべ、親に強制されたルートをきっぱりと拒否することもできない。本当の自分と信じる姿に戻れるのがVR世界の中だけだというなら、何のために現実世界に戻ってきたのかまるでわからない。 「キリトくん……キリトくん」  いつしか、唇のすきまから、その名前を何度も呼んでいた。  キリト——桐ヶ谷和人は、現実世界に帰還して一年以上が経過するいまでも、SAO世界で得た強靭な精神を苦もなく保ちつづけているように見える。それなりのプレッシャーは彼にもあるはずだが、それをまったく顔に表すこともない。  いつか、それとなく将来の目標を訊いてみたところ、照れくさそうに笑いながら、プレイする側でなく作る側になりたいのだ、とキリトは言った。それも、ゲーム世界などのソフトウェア的なものではなく、制約の多い現行NERDLES技術に取ってかわる、より親密なマンマシン・インタフェースを。そのために、すでに海外の技術系フォーラム・ワールドにも出入りし、勉強や意見交換を活発に行っているらしい。  彼なら、何の迷いもなく、一直線にその目標に突き進んでいくだろうと明日奈は思う。叶うなら、ずっと彼の隣にいて、同じ夢を追っていきたい。その為に何を勉強すればいいのか、あと一年いっしょに学校に通い、じっくりと見極めていきたい。  でも、その道もいま絶たれようとしている。そして明日奈は、結局はこのまま抗えないかもしれないという無力感に襲われている。 「キリトくん……」  今すぐ会いたい。現実世界でなくてもいいから、あの家で二人きりになって、彼の胸で思い切り泣いて、全てを打ち明けてしまいたい。  でも、できない。キリトが愛した自分は、この無力な結城明日奈ではなく、最強剣士の列に名を連ねた「閃光」アスナなのだという認識が重い鎖となって明日奈を絡め取っている。 『アスナは……強いな……。俺よりずっと強い……』  かつてあの世界でキリトが呟いた言葉が耳もとに甦る。明日奈が弱さを露わにしたとたん、彼の心が離れていってしまうかもしれない。  それがとても怖い。  明日奈はうつ伏せになったまま、いつしか浅い眠りに落ちていた。  銀鏡仕上げの鞘を腰に吊り、キリトと腕を絡ませて木漏れ日の下をどこまでも歩き続ける自分が見えた。だが、もう一人の自分はどこか暗い場所に閉じ込められて、笑いあう二人を声も出せずに覗き見ることしか出来なかった。  浅い夢のなかで、あの世界に還りたい、と明日奈は強く思った。    * * *  久しぶりに訪れる湖上都市セルムブルグは、昔とまったく変わらない美しい姿を青い水面に映していた。  アスナは白亜の城をかなたに見ながら、隣に座るキリトの肩にこてんと頭をもたれさせた。  島全体が城砦都市となっているセルムブルグ主街区は、六十一層全体に広がる湖の中央にその威容を聳えさせている。湖には他にも大小さまざまな島が点在し、二人は今、主街区の少し北に位置する小島の岸壁に並んで座っていた。背後には大きな樹が枝を広げ、足元を小波がちゃぷちゃぷと洗っている。冬にしては暖かい風が湖面を渡ってきて、周囲の細い草をさやさやと鳴らす。 「ね、覚えてる? キリトくんが初めてわたしの部屋に来たときのこと」  顔を見上げながらアスナが尋ねると、キリトはわずかに微笑みながら答えた。 「自慢じゃないが、記憶力の自信の無さには自信がある——」 「ええー」 「——けど、あの時のことは鮮明に覚えている」 「……ほんと?」 「勿論。あんときはほら、俺が超レアな食材アイテムをゲットしてさ。アスナがシチューを作ってくれたんだよ。ああ……あの肉は旨かったなあ……。今でも時々思い出すよ」 「もう! ごはんのことしか覚えてないんでしょ!」  アスナは唇をとがらせ、それでも声に笑いを滲ませながらキリトの胸を突付いた。 「……まあ、わたしも思い出しちゃうことあるけどね」 「なんだよ、人のこと言えないじゃないか。……なあ、あのシチューは現実世界では再現できないかな?」 「う〜〜ん……。基本的には鶏肉に似てたから、ソースに工夫すればもしかしたら……。でもさ、たぶん、思い出のままにしとくのがいいよ。もう二度と味わえない料理、ってなんだか素敵じゃない」 「うう、うむ、まあそうだな」  頷きながらもまだどこか残念そうなキリトを見て、アスナはもう一度笑ってしまう。 「あ、そうだ。……なあ」 「なあに?」 「なんかいつの間にかまたけっこうユルドが貯まってきたんだけどさ、次はセルムブルグに部屋買う? もとアスナの部屋があったとこ。このあいだ見に行ったら、まだ空いてたぜ」 「んー」  キリトの提案に、アスナはしばらく考えてから、首を横に振った。 「ううん、いいや。あんまりいい思い出ばっかりあったわけじゃないしさ。お金は、アルゲードにエギルがお店出すのに協力してあげようよ」 「あのボッタクリ商店が復活するのか……。融資するなら利息はトイチで……」 「うわ、ひどいなぁ」  キリトと旧アインクラッドの思い出話をしていると、本当にきりがない。笑いながらあれこれ言葉を交わしているうちに、ふとアスナは、セルムブルグからこの島に飛んでくるプレイヤーの数がかなり増えてきているのに気付いた。皆、二人の頭上を飛び越して、島の中央に屹立する大樹を目指していく。 「あ、そろそろ時間だ。いかなくっちゃ」  そう言いながらも、アスナが触れ合う体の温もりを惜しんでいると、キリトがどこか真剣な表情でつぶやいた。 「絶剣と、戦うなら……」 「……え?」 「えーと……うーん、いや、その……強いぞ、ほんとに」  キリトの口調にどことなく歯切れの悪さを感じとって、アスナは首を傾げた。 「強いのは、リズたちからじゅうぶん聞かされたよー。ていうか、そもそもキリト君でも勝てなかったんだからさ。わたしにどうこうできるとは最初から思ってないけど。ただその剣を見てみたいだけだから……。それにしても、信じられないなあ、キリト君が負けちゃうなんてさ」 「今は俺より強い奴はいっぱいいるって。まあ、その中でも絶剣は別格だったけどな」 「そう言えば、なんかデュエル中に喋ってたみたいってリーファちゃんが言ってたけど。何話してたの?」 「あー、うーと、ちょっと気になったことがあって……」 「どんなこと?」 「えっと、その……」  キリトの視線に、ある種の気遣わしさが混じっているのを、アスナは敏感に感じ取った。ますます訳がわからなくなり、眉をしかめる。  いくら絶剣なる男が強いと言っても、ここはもうSAO世界ではないのだ。例えデュエルでリザインが間に合わず、HPが無くなったところで、誰かに蘇生魔法をかけてもらえばすぐにその場で復活できる。デスペナルティで経験値は減少するが、何時間か狩りをすればすぐに取り返せるはずだ。  だが、キリトはアスナの思いもよらぬことを呟いた。 「あいつに、聞いたんだ。——君は、完全にこの世界の住人なんだな、って。答えは、猛烈なスピードの突進技だった。あの速さは……限界を超えていた……」 「……それって、ものすごい廃プレイヤーってこと?」  アスナが首を傾げながら訊くと、キリトは慌てたように首を振った。 「い、いや、そうじゃない。もっとピュアな意味でさ。純粋に、この世界で生きている人間……そんな気がしたんだ」 「それって……どういう意味……?」 「——あんまり先入観を持たせなくないな。これ以上は、アスナが自分で感じてみてほしい。戦えばわかると思う」  キリトに頭をぽんと叩かれ、アスナがぱちくりと目をしばたいたそのとき、背後の樹の向こう側にいくつかの降下音が立て続けに響いた。直後、聞きなれた大声。 「ちょっと目を離すとすぐこれなんだから!」  ざくざくと草を鳴らして近寄ってくる足音に、アスナは慌てて体を起こす。  リズベットは両手を腰に当てて立ち止まると、じとっとした目でアスナを見下ろしながら言った。 「お取り込み中すみませんけど、そろそろ時間でーす」 「わ、わかってるわよ」  背中の翅を使って体を持ち上げ、すとんと直立すると、アスナは全身の装備を確認した。青銀の糸を編んだ短衣と、お揃いのスカート。水竜の革で作ったブーツとグローブ。腰の剣帯には、水晶の柄を持つレイピア。いずれも現段階で手に入るアイテムとしては最高級のスペックを備えている。これで敗れても武装の差のせいにはできない。  マジックアクセサリの類も含めてチェックを終え、最後に時計を一瞥した。現実時間の午後三時をわずかに回ろうとしている。  傍らで立ち上がったキリトの顔にちらりと視線を送ってから、振り向いてリズベットとその背後のシリカ、リーファ、さらにその頭上のユイをぐるりと見回し、アスナは言った。 「——じゃ、行きましょう」  横一列で低空を飛行し、小島の中央を目指す。梢の連なりが途切れると、すぐに大きな丘が視界に入った。頂上には巨大な樹が四方に枝を広げ、その根元にはすでに沢山のプレイヤー達が集まって幾重にも輪を作っている。盛大な歓声が津波のように揺れながら届いてくる。  ギャラリーの輪のなかに空きスペースを見つけ、アスナ達が着陸したちょうどその時、遥か上空から喚き声とともにプレイヤーが一人落下してきた。大樹の根元に、猛烈な勢いで頭から突き刺さり、盛大な土煙を上げる。  見たところサラマンダーらしいその剣士は、しばらく大の字になって伸びていたが、やがて頭を左右に振りながらむっくりと上体を起こした。まだ墜落のショックが収まらないらしく顔をしかめながら、両手を差し上げて大声で喚く。 「参った! 降参! リザイン!」  途端、デュエル終了のファンファーレが宙に鳴り響き、一層大きな拍手と歓声がそれに続いた。  すげえ、これで六十七連勝だ、誰か止める奴はいないのかよ、と賞賛ともぼやきともとれる叫び声が無数に交錯する。それを聞きながら、アスナは勝者の姿を確認しようと、上空を振り仰いで目を細めた。  大樹の枝が作り出す木漏れ日の光の中を、くるくると螺旋軌道を作って降下してくるひとりのプレイヤーの姿が見えた。  思ったより小柄だ。名前のイメージから、筋骨隆々の巨漢といった姿を想像していたが、どちらかと言えば華奢な体型である。逆光の中をゆっくりと近づいてくるにつれ、細部が徐々に見て取れるようになる。  肌の色は、闇妖精インプの特徴である、ごくわずかに紫がかった白。長く伸びたストレートの髪は、濡れ羽色とでも言うべき艶やかな黒だ。胸部分を覆う黒曜石のアーマーはやわらかな丸みを帯び、その下のチュニックと、風をはらんではためくロングスカートは矢車草のような青紫。腰には、黒く細い鞘。  唖然として見つめるアスナの視線の先で、無敗の剛剣士「絶剣」は、地面の直前でくるりと一回転すると、軽やかにつま先から着陸した。そのまま左手を横に伸ばし、右手を胸に当てて、お芝居のような仕草で礼をする。途端、四方の男達から、もういちど盛大な歓声と口笛。  絶剣はぴょこんと体を起こすと、満面ににいっと笑みを浮かべ、打って変わって無邪気な動作でVサインを作った。身長は明らかにアスナより低い。顔は小造りで、えくぼの浮かぶ頬、つんと上向いた鼻の上に、棗型のくりくりとした大きな瞳が、アメジストのような輝きを放っている。  アスナはいまだ驚きからさめやらぬまま、隣のリズベットのわき腹を肘でつついた。 「……ちょっと、リズ」 「なに?」 「絶剣って——女の子じゃない!」 「あれ、言わなかったっけ?」 「言ってないよ! ……あ、もしかして……」  今度は反対側に立つキリトの顔をやや横目で見る。 「キリトくんが負けた理由って……」 「ち、違うよ」  真顔でぶんぶんぶんと首を振るキリト。 「女の子だから手加減したとかじゃないって。もう、超マジでした。ほんと。……少なくとも途中からは」 「どーだか」  つん、と顔をそむける。  その間にも、起き上がったサラマンダーが、敗れたにも関わらず笑顔で絶剣と握手を交わし、頭をかきながらギャラリーの一角に戻っていった。闇色の髪の少女は、ごく低位のヒール魔法を自分に掛けながら、くるりと周囲を見回す。 「えーと、次に対戦するひと、いませんかー?」  その声も、幼い少女のように高くかわいらしい響きだ。生身のプレイヤーの要素が反映されるのは性別のみで、年齢までは中からはわからないのだが、それでもまるで実年齢に即した姿であるように思えてくる。  周囲からは、お前行けよ、ヤダよ即死だよ、などというやり取りが聞こえるだけで、なかなか名乗り出る者はいなかった。と、今度はアスナの脇腹を、リズベットが肘でどやした。 「ほら、行きなさいよ」 「や……ちょっと、気合入れなおさないと……」 「そんなもんあのコと一合撃ちあえばバリバリ入るわよ。さ、行った行った!」 「わっ」  どすん、と背中を押され、アスナは数歩つんのめりながら進み出た。転びそうになるのを翅を広げて立て直し、顔を上げたところで、絶剣の二つ名を持つ女の子と正面から目が合った。 「あ、お姉さん、やる?」  ニコッと笑いかけられ、アスナは仕方なく、 「え、えーと……じゃあ、やろうかな」  と小声で答える。強面の大男と予想していた絶剣と、試合前に威勢のいい舌戦のひとつも繰り広げてやるはずが、調子が狂うことおびただしい。  しかし周囲からは、たちまち沸き立つような歓声が上がった。月例大会の表彰台常連であるアスナの顔を知るものも多いようで、名前を呼ぶ声もいくつか漏れ聞こえてくる。 「おっけー!」  少女はぱちんと指を鳴らすと、手を振ってウインドウを出し、素早く操作した。即座に、アスナの前にデュエル申し込み窓が出現する。  OKボタンに指先を触れながら、アスナは訊ねた。 「えーと、ルールはありありでいいのかな?」 「もちろん。魔法もアイテムもばんばん使っていいよ。ボクはこれだけだけどね」  即答しながら、絶剣は左手で剣の柄をぽんと叩いた。無邪気なほどの自信ぶりに、アスナの戦意もようやくぴりっと刺激される。  そう言われたら、遠距離からの魔法攻撃といった絡め手は使えないな、剣同士の真っ向勝負なら望むところよ、とアスナが内心で呟きながらレイピアの柄に右手を添えた、その時。  絶剣が、更に余裕を伺わせることを大声で言った。 「あ、そうだ。お姉さんは、地上戦と空中戦、どっちが好き?」  当然空中で戦うものと思っていたアスナは、虚をつかれて、剣を抜きかけた右手をぴたりと止めた。 「……どっちでもいいの?」  言うと、絶剣はにこにこしながら頷く。これも一種の駆け引きかとおもわず勘ぐるが、インプの少女が浮かべる笑顔にはひとかけらの邪さも感じとれない。つまり、単純に、どちらで戦おうと勝てると思っているのだ。  そういうことなら、こちらも素直に甘えさせてもらおう、と考えながらアスナは答えた。 「じゃあ、地上戦で」 「おっけい。ジャンプはあり、でも翅を使うのはなしね!」  絶剣は即座に頷くと、背後に広げていた特徴的なシルエットの翅を畳んだ。コウモリに似たかたちのそれは、たちまち色を薄れさせ、ほとんど見えなくなる。アスナもそれに倣い、肩甲骨の先に伸びる翅から、意識の接続を切る。  アスナは、ALO接続初日には補助スティックを使わない随意飛行をほぼマスターし、今ではもうアップデート以前の古参プレイヤーたちにも空中戦で引けを取らないほどの腕前になっている。  それでも、やはり二年に及ぶSAO内での戦闘で体に染み付いた動きはそうそう薄れるものではない。地上で戦えるのは正直有り難いことだった。つま先を動かし、ブーツの底を通して伝わる地面の硬さを、しっかりと感じ取る。  剣を抜いたのはほぼ同時だった。じゃりーん、と高い音が二つ、重なって響いた。  絶剣が装備しているのは、細めの両刃直剣だった。鎧と同じく、黒曜石のような深い半透明の色合いを帯びている。武器のランクとしてはアスナが持つレイピアとほぼ同等であり、一部のレジェンダリィ・ウェポンが持つようなエクストラ能力は無いはずだ。  絶剣は中段に構えた剣を前に、自然な半身の姿勢を取った。対してアスナは右手を体側に引き付け、レイピアをほぼ垂直に向ける。すうっと波が引くように周囲の歓声が遠ざかっていく。  大きく息を吸い、吐いたところで、進行していたカウントがゼロになった。 「DUEL」の文字が一瞬の閃光を発すると同時に、アスナは全力で地を蹴った。約七メートルの距離を瞬時に駆け抜けながら、体を右方向にきゅっと捻る。 「シッ!」  短い気合とともに、弓から撃ち出される矢のように右手をまっすぐ突き出した。慣性力と捻転力をすべて乗せた突きを、絶剣の体の中心やや左に向けて二発、わずかにタイミングをずらして右に一発。ソードスキルではない通常技なのでスピードはさほどではないが、かわりに照準は精密だ。最初の二発を右に避けてしまうと、続く一発の回避はほとんど不可能となる。  絶剣は、アスナの思惑どおり、体をすっと右に振って初撃と次撃を避けた。その動きが止まったところに、狙い違わず三撃目が吸い込まれていく——  だが、剣尖がアーマーの胸元を捉えるその直前、絶剣の右手が煙るように動いた。同時にアスナのレイピアの右側面に小さな火花が弾け、突きの軌道が微妙にズレた。  絶剣が、己の武器で超高速の突き技の途上にあったレイピアを正確にパリィしたのだ、と頭で理解したときにはもう、剣先は絶剣の鎧をわずかに掠めて宙に流れていた。  カウンターの反撃を予想し、アスナはうなじの皮膚がちりちりと痺れるのを感じた。だがここで剣を戻そうとすれば体勢が硬直してしまう。技の慣性に逆らわず、思い切り体を左に回転させる。  同時に、首元目掛けて跳ね上がってくる黒い輝きが視界に入った。 「——ッ!!」  まさに雷光と言うべき恐ろしいほどのスピードに、戦慄が全身を駆け抜けた。歯を食い縛り、右足のつま先に地面を抉り取るほどの力を込めて体を捻る。  足元は短く細い草が密に生えており、設定された摩擦力は石畳や裸地と比べるとわずかに低い。その数値がアスナを裏切り、ずるりと右足が滑った。瞬間的に、体ががくんとズレた。  だがそれが幸いし、絶剣の剣先はアスナの胸元を掠めるに留まった。ずばん! という衝撃が耳のすぐそばを通過した。もし髪に当たり判定があったら、アスナの水色のロングヘアは長さが半分になっていただろう。虚空に放出されたエネルギーが、空気を揺らして拡散していくのが目の端に見えた。  アスナはグリップの回復したブーツで地面を蹴り飛ばし、大きく右にジャンプした。左足でもう一度跳び、充分な距離を取って停止する。  追撃に備えて腰を落としたが、絶剣は相変わらず笑顔を崩さないまま、再び剣を中段に構えて動きを止めた。アスナはばくばく言う心臓をなだめながら、どうにか笑みを返した——ものの、内心では冷や汗を滝のように流していた。  自分に向かって飛んでくる突き技の軌道というのは、近づく小さな点でしかない。それを回避するには、基本的に足を使ったステップ防御を使うしかないのだが、絶剣はアスナのレイピアの横腹を正確に弾いてのけた。カウンター攻撃のスピードよりも、アスナはその超反応速度に舌を巻いていた。強い強いと散々聞かされていたものの、相手の思いがけず可愛らしい容姿に緩んだ意識に、ばしゃりと冷水を浴びせられたような思いだった。一時は、キリトが敗れたのは女の子相手の油断もしくは手心のせいかと疑ったのだが、それはあらぬ濡れ衣と言うべきだろう。彼でさえ、アスナの全力突きをパリィ防御してのけたことは一度もないのだ。  アスナは再び深く息を吸うと、ぐっと止めた。確かに恐るべき相手だが、たった一合交えただけで諦めては剣士の名がすたる——  不意に、耳の奥にこだまする声があった。 (何が剣士だ——そんなもの——たかがゲームの——)  ぎりりと歯を噛み締めて、意識からノイズを振り落とす。この世界はもうひとつのリアル・ワールドであり、そこでの戦いはいつだって真剣勝負なのだ。そうでなければならないのだ。  己を鋭く鞭打つように、アスナは剣を鳴らして右肩の上に構えた。今度は剣先をまっすぐ相手に向ける。  通常技が通用しないとなったら、あとは危険覚悟でソードスキルを撃ち込むしかない。しかしソードスキルにはシステム的な技後硬直時間が設定されており、もし全弾を回避されたら、致命的な反撃を叩き込まれるのは必至だ。どうにか相手の体勢を崩して、必中の状況を作らなくてはならない。アスナは空いている左手をぐっと握り締めた。  再度地面を蹴って飛び出したときには、意識は完全に研ぎ澄まされていた。ALO世界での戦闘ではほとんど感じたことのない、神経系が燃え上がるような加速感が体じゅうを包んでいく。  こんどは、絶剣のほうも飛び出してきた。口元からふっと笑みが消え、紫水晶の瞳がきらりと光る。  右斜め上段から、轟と襲い掛かってきた黒曜石の剣を、アスナは左からの切り払いで受けた。火花、金属音と同時にすさまじい衝撃が右手に伝わる。撥ね戻された剣を、絶剣は武器の重量を感じさせないほどのスピードで切り返し、次々と撃ち込んでくる。見てから反応したのでは絶対に間に合わない速さだ。視界全体で捉えた相手の全身の動きから次の攻撃方向を予測し、受け、また避ける。時折偶発的に剣が互いの体を掠め、じわじわと二人のHPが減少していくが、クリーンヒットと言えるものは一発も無い。  超高速の剣戟を響かせながら、アスナはふとある種の違和感を覚えていた。  確かに、絶剣の攻撃速度、反応速度には恐るべきものがある。純粋なスピードだけを見ればキリト以上だ。だがそれでも、アスナがどうにかついていけるのは、SAOで培った膨大な戦闘経験に加えて、相手の攻撃が素直すぎるせいもある。武器を振りはじめで止めたり、テンポを一瞬遅らせたりといったフェイントはまったく使ってこない。  もしかしたら、対プレイヤー戦闘の経験はあまりないのかもしれない、とアスナは感じた。もしそうなら、一瞬だけでも意表を突ければ、勝機は見える。  右上、左上、左横と続いた三連撃をかいくぐり、アスナは思い切って絶剣の懐にまで飛び込んだ。ほぼ密着と言っていいほどの間合いだ。これでもうステップ防御は互いに使えない。  アスナが腰を落とし、右手のレイピアを相手の体の中心めがけて、思い切り突き込もうとし——  絶剣がそれに反応し、剣を下から切り上げようとした——  その瞬間、アスナは右手を思い切り引き戻し、同時に握った左拳を絶剣の右体側に向けて叩き込んだ。はるばるノーム領の首都の修練場にまで赴いて修行した、「拳術」スキルによる攻撃だ。専用のナックル系武器を装備していないので威力はないが、無スキルではありえないダメージが発生する。  どう、という衝撃が左拳に伝わり、絶剣の目が驚きに丸くなった。  ——最初で最後のチャンス。アスナは躊躇なく、ソードスキル「カドラプルペイン」四連撃を発動させた。  レイピアがまばゆい赤に発光し、同時に右手がシステムの見えざる手に後押しされて、稲妻のように宙を裂いた。  アスナは攻撃が命中するのを確信した。相手は体勢を崩している。距離的にも、最早回避は不可能だ。  だが。右手をシステムの加速に委ねながら、絶剣の顔を見たアスナの背に、再度の戦慄が疾った。絶剣は大きな目を見開いていたが、紫色の瞳に驚きの色はなかった。その瞳孔は、ぴたりとレイピアの先端に焦点を合わせていた。  この突きが見えている——!?  アスナがそう思った瞬間、絶剣の右手が閃いた。  剣をグラインダーに掛けたときのような、硬質の擦過音が四つ、立て続けに響いた。アスナの四連撃は、上下左右に正確に弾かれ、一撃として命中したものは無かった。アスナには、絶剣の黒い剣が残した薄墨のような残像しか見えなかった。  最後の一撃が受け流され、右手を前に出した格好のまま、コンマ何秒の——しかし絶望的な——硬直時間がアスナを襲った。その隙を絶剣が見逃すはずもなかった。  ぎゅん、と引き戻された黒曜石の剣が、青紫色の光を帯びた。  恐らく、硬直中でなくとも回避は難しかったであろうスピードの直突きが、アスナの左肩を捉えた。そのまま斜めに、右腹に向かって五連撃。全てを綺麗に貰い、HPバーががくがくと急激に減少した。記憶にない技だった。ということはオリジナル・ソードスキルだ。これほどの速度の五連突きを編み出すとは——  とアスナが呆然と考えたその時、剣がその光を失わぬまま、今度は左上に構えられた。  五発で終わりではないのだ。まだ続きがある。ようやく硬直が解けた体を引き起こしながら、アスナは三度慄いた。  仮に、同じような突きがもう五発続いたら、ほぼ間違いなくHPはゼロになる。かと言って、回避は不可能だ。  無駄な逃げ動作をして背中を斬られるくらいなら、わずかな可能性に賭けたほうがいい。アスナはレイピアを握る右手に力を込め、もう一度ソードスキルを発動させた。唯一マスターしているOSS五連撃技、「アストラルティアー」。  赤と青の閃光がまばゆく交錯した。アスナの右肩から左下に向けて、先ほどの連撃とあわせてバツの字を描くように剣尖が叩き込まれる。  だが今度こそ、アスナのレイピアも絶剣を捉えた。小さな星型の頂点を辿りながら、五発の突き技が黒いアーマーを貫いていく。  五連撃を交換し終わり、一瞬の静寂が訪れた。二人とも、まだ倒れていなかった。  絶剣のHPはアスナには見えないが、アスナのHPバーはほんの少しだけ残っていた。もともと、SAOからのキャラデータ引継ぎ組であるアスナのHP数値はALO古参組を上回るほどなのだ。驚異的な十連撃でそれをほぼ削りきった、絶剣のOSSの威力は凄まじいものが——  ——絶剣の剣を包む青紫色の輝きは、まだ消えていなかった。  もう一度引き戻された剣が、アスナの体の中央、バツの字の交差点をぴたりと照準する。  それでは、これが、絶剣がデュエルに賭けているという十一連撃OSSなのか、とアスナは感嘆とともに思った。  強い。そしてそれを上回る美しさを持った技だ。これほどの剣技に敗れるなら悔いはない。そう心のなかで呟きながら、アスナはとどめの一撃を待った。  猛然と襲い掛かってきた十一撃目は、しかし、アスナを貫く寸前でぴたりと停止した。 「——!?」  唖然として目を見開くアスナの前で、絶剣は武器を下ろすと、何を思ったかすたすたと近づいてきた。左手でアスナの肩をぽんと叩き、にっこりと輝くような笑みを浮かべる。その唇が動いて、威勢のいい声が発せられた。 「うーん、すごくいいね! お姉さんに決めた!!」 「な……ええ……?」  アスナはもう訳がわからず、間抜けな声を漏らすことしかできなかった。 「あ、あの……デュエルの決着は……?」 「こんだけ戦えば、ボクはもう満足だよ。お姉さんは最後までやりたい?」  笑顔でそう言われては、アスナも首を横に振るしかない。どちらにせよ、絶剣が最後の一撃を止めなければ、アスナのHPは確実にゼロになっていたのだ。少女は嬉しそうに大きく頷くと、言葉を続ける。 「ずっと、ぴぴっとくる人を探してたんだ。ようやく見つけた! ね、お姉さん、まだ時間だいじょうぶ?」 「う……うん。平気だけど……」 「じゃ、ボクにちょっと付き合って!」  絶剣は涼やかな音を響かせて腰の鞘に剣を収めると、勢い良く右手を差し出した。アスナもとりあえず剣を鞘に戻し、おずおずとその手を取る。  途端、絶剣は背中の翅を大きく広げると、ロケットのような勢いで地面を蹴った。 「わっ」  慌ててアスナも翅を広げ、宙に浮き上がる。 「ちょっと、どこいくのよアスナ!」  甲高い声に振り向くと、リズベットが驚き半分呆れ半分と言った顔で手を上げていた。 「え、えっと……あとで連絡するー!」  答えるのと、絶剣が両の翅を輝かせて猛ダッシュに入るのはほぼ同時だった。アスナは右手を引っ張られながら、懸命に背中の翅を震わせて、謎めいた少女剣士のあとを追った。  絶剣は六十一層の湖の上空を一直線に南下すると、アインクラッド外周の開口部から躊躇なく外に飛び出した。 「わぷっ!」  途端に濃密な雲の塊がアスナの顔を叩く。白一色の空間をさらに数秒突き進むと、不意に雲が切れ、セルリアンブルーの空が無限に広がった。  視界の遥か右下方には、雲の層を貫いて緑色の円錐が伸びているのが見える。アルヴヘイム中央にそびえる世界樹の先端だ。視線を動かして真下を見ると、青く霞む地表が薄っすらと見て取れる。海岸線を丸く抉ったような湾の形状からすると、現在アインクラッドはウンディーネ領の上空を飛行中だったらしい。  一体どこに行くつもりなのか、と思ったとき、前を飛ぶ絶剣が急に上昇に転じた。  体を半回転させると、目の前にアインクラッドの湾曲した巨体が絶壁のように屹立している。ひとつ百メートルの高さを持つ層を次々に横切って、絶剣は尚も高みを目指して飛び続ける。  ——と言っても、巨大浮遊城の外周部を自由に出入りできるのは、すでに攻略された層に限られている。未踏破層の外周は不可侵領域になっているのだ。心配になったアスナは、それを確認しようと口を開いたが、叫ぶべく息を吸い込んだところで再び飛翔角度が九十度変わった。  絶剣が目指しているのはどうやら六十七層のようだった。アスナの記憶が正しければ、現在の最前線だ。苔むした外壁の隙間を縫うように、すぽんと内部に飛び込むと、いきなり周囲が暗くなった。  アインクラッド六十七層は常闇の国だ。外周の開口部は極端に少なく、昼間でも差し込む陽光は無いに等しい。内部はごつごつした岩山がいくつも上層の底まで伸び、そのそこかしこから生えた巨大な水晶の六角柱がぼんやりとした青い光を放っている。印象としては、アルヴヘイム北方のノーム領を構成する地底世界に近い。  スプリガンと並んで暗視能力に秀でたインプの少女は、アスナの手を引いたまますいすいと岩山の間を飛翔していく。時折前方に、飛行モンスターであるガーゴイルの集団が姿を現すが、戦闘を行う気は無いようで、敵群の索敵範囲を巧みに避けて翔び続ける。  やがて出現した深い谷に飛び込み、尚も低速で一分ばかり飛ぶと、円形に開けた谷底に貼り付くように小さな街が見えた。六十七層主街区の、名前は確か『ロンバール』だ。  岩の塊からまるごと掘り出したようなその街は、細い路地やら階段やらが複雑に絡み合っており、それらをオレンジ色の灯りが照らし出している。寒々とした夜の底にぽつりと燃える焚き火のように、どこかほっとする光景だ。  絶剣とアスナは、紫と水色の軌跡を闇に引きながら、街の中央の円形広場目指してゆっくりと降下していく。  街区圏内に入った証である穏やかなBGMが耳に届き、かすかなシチューの香りが鼻をくすぐった——と思ったときには、靴底がすとんと石畳を叩いていた。  アスナはふう、と息をついて、とりあえず周囲を見回した。ロンバールは、夜の精霊たちの街、というコンセプトに添って巨きな建物はひとつも存在しない。青みがかった岩造りの小さな工房や商店、宿屋がぎっしりと軒をつらね、それらをオレンジ色のランプが照らし出す光景は幻想的な美しさと夜祭り的な賑わいを同居させている。  旧SAO時代のこの街は、層の攻略にこそ手間取ったものの、さして重要な施設もないせいで、人が集まった時期はごく短かった。アスナも数日逗留した記憶しかない。  しかし今は、攻略最前線だけあって多くのプレイヤー達が装備を鳴らして闊歩している。皆がひとくせふたくせありそうな、つわものめいたオーラを漂わせており、それを見るアスナの胸に懐かしさとほろ苦さが入り混じった感慨が去来した。  森の家を手にいれるため、二十二層までは常に前線に立ちつづけたアスナだが、それ以降の層ではほとんどボス攻略には参加していない。街開きのカタルシスは、新規に浮遊城での冒険を楽しんでいるプレイヤー達が味わうべきだと思うし、最前線にいると思い出すのは楽しいことばかりではないからだ。  目をつぶり、軽く髪を払って感傷を振り落とすと、アスナは隣に立つ絶剣を見やった。 「わたしに用って、なに? ここに何かあるの?」  訊くと、絶剣はにっと笑みを浮かべ、再びアスナの手を取った。 「その前に、まずボクの仲間に紹介するよ! こっち!」 「あ、ちょ……」  たったか駆け出す絶剣の後を追い、アスナは広場から放射状に伸びる狭い路地のひとつに潜りこんだ。  小さな階段を登り、降り、橋を渡りトンネルをくぐり、着いた先は一軒の、宿屋とおぼしき店の前だった。「INN」の文字と大釜を象った鋳鉄製の吊り看板が揺れる戸口をくぐり、居眠りする白髭のNPCの横を通り抜けて奥の酒場兼レストランへと足を踏み入れる。その途端—— 「おかえり、ユウキ! 見つかったの!?」  はしゃぐような少年の声が、二人を出迎えた。  酒場の中央の丸テーブルには、五人のプレイヤーが陣取っていた。他に人影はない。絶剣はすたすたと彼らの前に歩み寄り、くるりとアスナのほうに振り向いた。すっと右手を横に伸ばし、 「——紹介するよ。ボクのギルド、『スリーピング・ナイツ』の仲間たち」  再び半回転し、今度はアスナを手で示して、 「で、このお姉さんが——……」  そこで一瞬言葉に詰まる。ぎゅっと首をすくめると、おおきな瞳を回しながらぺろりと舌を出した。 「……ごめん、まだ名前聞いてなかった」  だああっ、と五人のプレイヤーが椅子の上でコケる。その様子にアスナは思わずくすりと笑いながら、ぺこりと一礼して名乗った。 「わたし、アスナといいます」  すると、アスナから見ていちばん左に座っていた、小柄なサラマンダーの少年が立ち上がった。頭の後ろで小さなシッポに結ったオレンジ色の髪を揺らして、元気な声で言う。 「僕はジュン! アスナさん、よろしく!」  その隣は、ノームの巨漢だった。砂色の癖っ毛の下に、にこにこと細められた糸目が愛嬌を沿えている。突き出たお腹を無理矢理ひっこめるようにぺこりと頭を下げ、のんびりした口調で名乗った。 「あー、えーっと、テッチって言います。どうぞよろしく」  続いて立ったのは、ひょろりと痩せたレプラホーンの青年だった。きちんと分けた黄銅色の髪と、鉄ブチの丸眼鏡が学生めいた印象を与える。小さな丸い目を一杯に見開き、かくんと腰を折ってから、なぜか赤面しながら慌てたようにまくしたてる。 「わ、ワタシは、そ、その、タルケンって名前です。よ、よ、よろしくお願いし……イッテ!!」  語尾に悲鳴がかぶったのは、彼の左に座っていた女性プレイヤーが、重そうなブーツでむこうずねを蹴飛ばしたからだ。 「いいかげんその上がり性なおしなよタルは! 女の子の前に出るとすぐこれなんだから」  威勢のいい口調で言うと、ガッタンと椅子を鳴らして立ち上がった。目を丸くするアスナに向かって顔中でにいっと笑いかけ、太陽のように広がった黒髪をぐしゃぐしゃかき混ぜながら名乗る。 「アタシはノリ。会えて嬉しいよ」  浅黒い肌と灰色の翅を見る限りスプリガンのようだが、ぐいっと太い眉ときりりとした目、厚めの唇、骨太の体格には影妖精族のイメージはあまり無い。  そして、最後のひとりは、アスナと同じくウンディーネの女性プレイヤーだった。ほとんど白に近いアクアブルーの髪を両肩に長く垂らし、伏せた長い睫毛の下には穏やかな濃紺の瞳が輝いている。すっと長く通った鼻梁に艶やかな唇、驚くほど華奢な身体は、本来治療師としての能力に秀でる水妖精族のイメージにぴったりだ。  女性はふわりとした動作で立つと、落ち着いたウェットな声で自己紹介した。 「はじめまして。私はシーエンです。ありがとう、来てくれて」 「んで——」  最後に、五人の右に立った絶剣が、おおきな瞳をきらきら輝かせながら言った。 「ボクが、いちおうギルドリーダーのユウキです! アスナさん……」  がっしとアスナの両手を取り、 「一緒にがんばろう!」 「えっと……何をがんばるのかな?」  笑いをこらえながらアスナが訊くと、絶剣ことユウキはきょとんとした顔をしてから、再びぺろりと舌を出した。 「そっか、ボクまだなんにも説明してなかった!」  ずこーっ! と再度五人が椅子の上に崩れ落ちる様子を見て、アスナはついに吹き出してしまった。お腹をかかえてくっくっと笑っていると、やがてユウキと、残り全員も大声で笑い出す。  どうにか笑いを飲み込もうと苦労しながら、アスナはもう一度『スリーピング・ナイツ』のメンバーをぐるりと見回し——そして、かすかに背筋をぞくぞくと走るものを感じた。  全員が全員、凄まじい手練だ。何気ない一挙手一投足の滑らかさを見ただけで、アスナには判る。六人とも、VR世界での動きに完全に慣れきっている。恐らく武器を取れば、絶剣に近いレベルの強さを発揮するに違いない。  これほどの凄腕集団が存在することを、アスナも、おそらくキリトやリズたちもまるで知らなかった。仮に全員が、絶剣と同じく他世界からコンバートしてきたとすれば、元のVRワールドではさぞかし名の通ったチームだったに違いない。  慣れ親しんだVR体と全アイテムを捨ててまで、ALOに移住してきた理由はなんだろう……とアスナが考えていると、ようやく笑いを収めた絶剣——ユウキが、赤いカチューシャを飾った頭をぽりぽりかきながら、申し訳なさそうに言った。 「ごめんね、アスナさん。訳も言わずにこんなとこまで連れてきちゃって。ようやくボクと同じくらい強い人みつけたんで、嬉しくて、つい……。えーと、あらためてお願いします。ボクに……ボクたちに、手を貸してください!」 「手を……貸す?」  首を傾げて繰り返しながら、アスナは、頭のなかでいろいろな想像を瞬時に巡らせた。  単純な、お金やアイテム、スキルアップポイント目的の狩りの手伝いということはないだろう。これほどのハイレベル・ギルドに、今更アスナが一人加わったところで出来ることはたかがしれている。  同様に、特定のレアアイテムやプレイヤーハウスを入手するという目的も考え難い。情報自体が高額で取引されていた旧SAOとは違い、ALOには無償で攻略情報を載せている外部ウェブサイトが山ほどある。それらを参考に腰を据えて取り組めば、ほとんどのアイテムはいずれ取得できるはずだ。  有り得るとすれば、絶剣がアスナに求めた「強さ」というのは単純な数値的能力ではなく、戦闘の駆け引きを含めたノウハウ全般ということなのだろうか。となると、それがもっとも必要とされるのは、対モンスターではなく対プレイヤー戦である。しかもギルドに紹介したということは、絶剣が今まで行ってきた一対一のデュエルではなく、集団による大規模戦闘——平たく言えばどこかのギルドとノールールで殺しあうということだ。  そこまでを一瞬で考え、アスナはわずかに唇を噛んでから、おずおずと口を開いた。 「あの……もし、他のギルドとの戦争の手伝いだったら、悪いんだけど……」  試合形式の大会や、システムに則ったデュエル以外の対人戦は、どうしてもあとに感情のしこりを残すことになる。もちろん、一時のぶつかり合いを長々と根に持つプレイヤーは少数派だが、それでもアスナ本人のみならず周囲の友人たちにまで後々迷惑をかけることになる可能性は否定できないのだ。  よって、アスナはたとえ狩場で理不尽なマナーレス行為を浴びせられようとも、プレイヤー相手には絶対に剣を抜かないようにしている。  そのことを、どうにか簡潔に説明しようと、続けて口を開いた。だが、絶剣は一瞬ぱちくりと目を見開いてから、ぶんぶんと首を振った。 「ううん、違うよ、どっかと戦争とかそんなんじゃないんだ。えっとね……その、ボクたち……笑われるかもしれないんだけど……」  ふいっとうつむき、はにかむように唇をもごもごさせてから、上目遣いにアスナを見た絶剣は、まったく思いもよらないことを口にした。 「……あのね、ボクたち、この層のボスモンスターを倒したいんだ」 「は……はあ!?」  アスナは完全に意表を突かれ、素っ頓狂な声を上げてしまった。 「ボス……ボスモンスターって、迷宮区のいちばん奥にいるやつ……? 時間湧きのフラグドモブとかじゃなくて?」 「うん、そう。一回しか倒せない、アレ」 「うーん……そっか……ボスかぁ〜〜」  絶句しながら残り五人のギルドメンバーの顔を見回すと、全員が目をきらきらさせながら、アスナの返事を待っているようだった。どうやら本気らしい。 「それは……まあ、ゼッ……じゃない、ユウキさんたちの強さなら……」  ぱちぱちと何度も瞬きしてアタマを切り替え、実際的なボス攻略の可能性について考える。 「そうだね……お金はかかるけど、あと三十五人くらい集めて、えーと、六パーティー程度の態勢を組めれば、不可能じゃないと思うけど……」  すると、絶剣はさらにもじもじしながら、再度首を左右に動かした。 「えっとね……それじゃ、ダメなんだ。僕たち六人と、アスナさんだけで倒したい……んだけど……どうかな……」 「えぇ!?」  もう一度おおきな声を出してしまう。  新生アインクラッドに配置されているフロア守護モンスターは、旧SAOと比べると、やけくそなまでの強化を施されている。もちろんゲームシステムが大幅に変わっているので単純な比較はできないが、旧時代のボスたちのほとんどが、ひとりの死者も出さずに攻略可能だったのに対して、新ボスモンスター群は超強力な通常・特殊攻撃によってプレイヤーたちをたんぽぽの綿毛のように吹き散らしていく理不尽な強さを誇っているのだ。  当然、攻略のための作戦も変わらざるを得ない。可能なかぎりの人数を集め、死者が続出するのを見越してヒーラーの層を厚くする。ひとりが与える十のダメージより、十人で十二のダメージを与えることを重視する。アスナが最後に参加したボス攻略戦は二十一層のものだが、そんな低階層でさえ、仲間を総動員した二十一人三パーティー態勢が全滅寸前まで行ったのである。  ボスの強さは、当然階層が上がるごとに増加している。徐々に終盤が見えつつある六十五、六十六層あたりは、有力な大ギルドがいくつも協定を結んで、ようやく攻略したのだと聞いた。  つまり、いくら強者ぞろいとは言ってもたかだか七人でボスを倒そうというのは無茶もいいところなのだ。  アスナは、言葉を選びながら手短にそのへんの事情を説明した。 「……っていうわけだから……七人っていうのは、ちょっと無理かなあって思うんだけど……」  言葉を切ると、ユウキたちは互いに顔を見合わせ、なぜか全員が照れたように笑った。代表して、ユウキが口を開く。 「うん、ぜんぜん無理だった。実は、六十五層と六十六層のボスにも挑戦したんだ」 「えー!? ろ……六人で!?」 「そう。ボクたち的にはけっこうがんばったつもりだったんだけど……どうしてもMPと回復アイテムがもたなくて。あれこれ言ってるうちに、でっかいところに倒されちゃった」 「そ……そっかあ……。本気なんだね」  アスナはもう一度ゆっくりと六人の顔を見た。確かに無謀な挑戦もいいところだが、そういう気概そのものは嫌いではない。ゲームに慣れすぎたプレイヤーは、出来ること、出来ないことにすぐ見切りをつけたがってしまうものだ。『スリーピングナイツ』がもつエネルギーは、アスナの目にはとても新鮮なものに映った。 「でも……何で? どうしてそこまでしてボスを倒したいの?」  ボスを倒せば、尋常ではない額のユルドと、希少な武具、アイテムを手に入れることができる。だが、その動機は、どこかこの六人はそぐわないような気がした。 「えっと……えっとね」  ユウキは、アメジスト色の瞳をいっぱいに広げて、何ごとかを言おうと口を動かした。しかし、言葉が出てこない。何かが胸に詰まったように、幾度も唇を開いたり、閉じたりするが、言うべき言葉がなかなか見つからないようだった。  と、ユウキの隣にいた長身のウンディーネ、シーエンと名乗った女性が、助け舟を出すように声を発した。 「あの、私から説明します。その前に、どうぞ、座ってください」  アスナを含めた七人がテーブルにつき、NPCにオーダーした飲み物が並んだところで、シーエンは卓上でしなやかな指を組み合わせ、落ち着いた声で喋りはじめた。 「実は、私たちはこの世界で知り合ったのではないんです。ゲーム外のとあるネットコミュニティで出会って……すぐに意気投合して、友達になったのです。もう……二年ほども経ちますか」  睫毛を伏せたまま、何かを思い出すように一瞬言葉を切る。 「最高の仲間たちです。みんなで、色々な世界に行って、色々な冒険をしました。でも、残念ですが、私達が一緒に旅を出来るのもたぶんこの春までなんです。みんな……それぞれに忙しくなってしまいますから。そこで私達は、解散するまえに、ひとつ絶対に忘れることのない思い出を作ろうと決めました。無数にあるVRMMOワールドの中で、いちばん楽しく、美しく、心躍る世界を探して、そこで力を合わせて何かひとつやり遂げよう、って。そうしてあちこちコンバートを繰り返して、見つけたのがこの世界なのです」  シーエンは仲間たちの顔を順に見回した。ジュン、テッチ、タルケン、ノリ、ユウキの五人は、それぞれ顔を輝かせて大きく頷く。シーエンもふわりと微笑し、続ける。 「この世界——アルヴヘイム、そしてアインクラッドは素晴らしいところです。美しい街や森、草原、世界樹——そしてこの城をまわりを、皆で連れ立って飛んだことを、全員永遠に忘れることはないでしょう。望むことは、あとひとつ……この世界に、私達の足跡を残したい」  ほとんど閉じられた瞼のおくで、シーエンの藍色の瞳が真剣な光を帯びる。 「ボスモンスターを攻略すれば、はじまりの街にある黒鉄宮、あそこの『剣士の碑』に名前が残りますよね」 「あ……」  アスナは一瞬目を見開いてから、大きくこくんと頷いた。昔のことなので忘れていたが、確かにボスを倒したプレイヤーの名前は黒鉄宮に記録される。アスナ自身も、二十一層の欄に名を残している。 「その……自己満足もいいところですけれど、私達、どうしてもあの碑に名前を刻んでおきたいんです。でも、問題がひとつあります。ボスを攻略したのが一パーティーなら、その全員の名前が記録されるのですが、パーティーが複数になってしまうと残るのはパーティーリーダーの名前だけになってしまうのです」 「そ……そっか。うん、確かにその通りですね」  アスナもこくんと頷く。 「つまり、全員の名を残そうと思ったら、挑めるのは一パーティーだけということになってしまいます。私達、六十五層と六十六層で一生懸命がんばったんですが、どうしてもあと少しが及ばなくて……。そこで、みんなで相談して決めたのです。パーティーの上限人数は七人なので、あとひとりだけ空きがあります。僭越な話ですけど、私達の中で最強のユウキと同じかそれ以上に強い人を探して、助けてくれるようにお願いしてみよう、って」 「なるほど……。そういうことだったんですか」  アスナはひとつこくんと頷き、視線を白いテーブルクロスの表面に落とした。 『剣士の碑』に名前を残す。その望みは理解できる。  VRMMOに限らずネットゲームというものはプレイヤーに多くの時間を要求するため、進学や就職といった理由によって、春ごろに引退していく者は多い。必然的に、何年も存続した親密なギルドが解散を余儀なくされることもあるだろう。その思い出を、この世界が続くかぎり残る記念碑に刻んでおきたいと思うのは自然なことだ。  ほかならぬアスナ自身も、果たしていつまでALOを続けられるかわからない状況だ。母親がこれ以上強硬な態度に出れば、アミュスフィアの使用そのものを禁じられるかもしれない。残る時間が有限なら、その一分一秒を濃密なものにしたい、という思いは彼らと共通している。 「……どうでしょう? 引き受けてはもらえませんか? 私達は、コンバートしてまだあまり経っていないので、お礼がじゅうぶんできないかもしれないんですが……」  金額を提示すべくトレードウインドウを操作しようとするシーエンを、アスナは両手で制止した。 「あ、いえ、どうせ経費が山ほどかかりますから、手持ちのお金はそっちに回したほうがいいです。報酬は、ボスから出たものを何かもらえればそれで……」 「じゃあ、引き受けてもらえるんですか!?」  シーエンと、残り五人の顔がぱっと輝く。 「え……ええと……」  アスナは軽く唇を引き結び、作戦成功の可能性を考えようとした。  遥かな昔、今はもうないギルドのサブリーダーとして、沢山のボスモンスターの攻略作戦を立案したときの記憶が甦ってくる。当時は、限られた人員とアイテムを懸命にやりくりして、絶望的な戦いに乗り出していったものだ。他の攻略ギルドやソロプレイヤーたちと何時間も討議し、怒鳴りあい、時には地面に手をついて助力を乞うたこともある。そこまでの苦労をしたのは、あの世界ではひとつどうしても堅守しなくてはいけない条件があったからだ。つまり、一人の死者も出さないこと。  しかしもう、すべては変わったのだ。今のこの世界でプレイヤーに与えられた義務そして権利はたった一つ、楽しむことだけだ。勝算がないからと言って退くのは、果たしてゲームを楽しんでいることになるのだろうか。ユウキたちは、すでにたった六人で六十五、六十六層のボスモンスターに挑み、しかも善戦したらしい。  失敗することをあれこれ考えるよりも、とりあえず、ぶつかってみる。そんな無鉄砲なゲームプレイはずいぶん長い間していないような気がした。どうせ、全滅したところで失うのは少々の経験値だけだ。 「……やるだけ、やってみましょうか。成功率とかは置いといて」  アスナは顔を上げて、いたずらっぽく微笑みながら言った。真っ先に歓声を上げたのはユウキだった。両手で、テーブルのうえのアスナの右手をがしっと包み、大きな瞳をいっぱいに見開く。 「ありがとう、アスナさん! 最初に剣を打ち合ったときから、そう言ってくれると思ってた!」 「そ、それはちょっと買い被りすぎかも……。あと、アスナって呼んでくれていいよ」 「ボクもユウキって呼んで!」  我先にと手を差し出してくるほかの五人ともそれぞれかたく握手を交わす。  新たに注文したジョッキでの乾杯が一段落したところで、アスナはふと浮かんできた疑問をユウキに向かって口にした。 「そういえば、ユウキちゃ……ユウキはデュエルで強い人を探してたんだよね?」 「うん、そうだよ」 「それなら、私の前にも、強い人はいっぱいいたと思うんだけどなあ。特に、つんつん頭で大剣使いのスプリガンのこととか、憶えてない? 多分、その人のほうが、わたしより助けになると思うんだけど……」 「あー」  それだけでユウキはキリトのことに思い至ったようだった。こくこくと頷き、何故かむずかしい顔で腕を組む。 「憶えてる。確かにあの人も強かった!」 「じゃあ……どうして助っ人を頼まなかったの?」 「うーん……」  珍しく口ごもってから、ユウキはちらりと不思議な笑みを浮かべた。 「やっぱり、あの人はダメ」 「な……なんで?」 「ボクの秘密に気付いちゃったから」  ユウキも、シーエンたちもそのことについては語りたくないようだったので、それ以上追求はできなかった。おそらくその秘密というのは、絶剣ことユウキの突出した強さに関連することと思われたが、アスナにはまるで見当もつかなかった。  首を傾げていると、話題を変えようとするかのように、レプラホーンのタルケンが丸眼鏡を押し上げながら言った。 「それで……攻略の、具体的な手順は、ど……どうなるんでしょう?」 「あ……ええっと……」  喉元にひっかかる疑問を、ジョッキの果実酒で飲み下し、アスナは人差し指を立てた。 「まず、大事なのは、ボスの攻撃パターンを把握することなの。避けるべきところは避け、護るべきは護り、攻めるべきところを全力で攻めれば、勝機が見えるかもしれない。問題は、その情報をどうやって得るかってことだけど……多分、ボス狩り専門の大ギルドには聞いても無駄でしょうね。一度は、全滅を前提に挑戦してみないとだめだと思う」 「うん、ボクたちは大丈夫だよ! ただ……前の層でも、その前でも、ぶっつけ本番で全滅したあと、すぐに他のギルドに攻略されちゃったんだ」  ユウキがしゅんとした顔をすると、テーブルの反対側で、サラマンダーの少年ジュンがギザギザした眉毛をしかめて言葉を繋いだ。 「三時間後に出直したらもう終わってたんだよなー。気のせいかもしれないけど……なんか、僕らが失敗するのを待ってたみたいな……」 「へえ……」  アスナは口もとに手を当てて考え込んだ。最近、ボス攻略に関していろいろなトラブルが発生しているとは噂に聞いていた。大規模なギルド同盟による専横が過ぎるというのが主な内容だが、そんなところが果たして六人程度のギルドに注意を払うだろうか。 「うーん、じゃあ一応、全滅したらすぐに再挑戦できるように準備を整えておきましょう。みんなの都合がいいのはいつなのかな?」 「あ、ゴメン。アタシとタルケンは夜だめなんだ。明日の午後一時からはどうかなあ?」  大柄なスプリガンのノリが、頭をかきながらすまなそうに言う。 「うん、わたしは大丈夫。じゃあ、あした一時にこの宿屋に集合でいい?」  オッケー、了解、と口々に頷く面々に向かって、アスナはもう一度笑いかけると、大きな声で言った。 「——がんばろうね!」  名残惜しそうに、本当にありがとうと繰り返すユウキの頭をぽふぽふと撫で、宿屋を後にしたアスナは、ひとまずリズベット達のところに戻ることにした。思わぬ成り行きのことを話せば驚くだろうなあ、とわくわくしながらロンバールの中央広場にある転移門を目指して早足に歩く。  覚束ない記憶を辿りながら隘路を抜け、ようやく目の前に賑わう円形広場が出現した、その時だった。  ブツン、とまるでスイッチを切ったように、世界が暗くなった。感覚の全てが消滅し、アスナはまったき闇の中に放り出された。    * * *  底無しの穴に放り込まれたような、急激な落下感覚に襲われ、きつく奥歯を噛み締める。唐突に天地の方向が九十度切り替わり、背中にぐいっと圧力がかかる。次いで、五感のスイッチがばちんばちんと乱暴に再接続されていくショックに、アスナは全身をかたく強張らせてこらえた。  二、三度まぶたを痙攣させてから、霞んで涙がにじむ眼をどうにか押し開くと、自室の天井がぼんやりと見えた。  馴染んだベッドの柔らかさが、ようやく身体の背面に伝わってくる。浅い呼吸を何度も繰り返すうち、神経系の混乱は徐々に収まっていった。  一体、何があったのだろう。瞬間的な停電か、もしくはアミュスフィアに何らかの障害が——と思いながら、腕に力をこめて上体を起こし、ヘッドボードのほうに振り返って、明日奈は唖然と口を開けた。ベッドの傍らには、険しい表情を作った京子が立っており、右手をアミュスフィア本体の上部に置いていた。  異常切断の理由は、京子がマシンの電源を落としたせいなのだ、と悟って、明日奈は抑えきれずに声を荒げていた。 「な……なにするのよ母さん!」  だが、京子は眉間に深い谷を刻んだまま、無言で北側の壁に目をやった。明日奈もその視線を追い、埋め込み型の時計の針が、六時半を五分ほど回っていることに気付く。  思わず明日奈が唇を引き結ぶと、京子はようやく口を開いた。 「先月食事の時間に遅れたとき、お母さん言ったわよね。今度、このゲーム機を使ってて遅れたら、スイッチ切りますからね、って」  その、どこか勝ち誇ったように聞こえる口調に、反射的に大声で言い返しそうになる。俯いてその衝動をどうにか飲み込んでから、明日奈は低く震える声で言った。 「……時間を忘れてたのはわたしが悪かったわ。でも、だからって電源切らなくてもいいじゃない。身体を揺するか、耳もとで大声で呼んでもらえれば、中に警報が届くから……」 「前にそうしたら、あなた目を醒ますまで五分もかかったじゃないの」 「それは……移動とか、挨拶とかいろいろ……」 「何が挨拶よ。わけのわからないゲームの中での挨拶を、本物の約束事より優先させるの、あなたは? お食事が冷めちゃったら、せっかく用意してくれたお手伝いさんに悪いとは思わないの?」  たとえゲームの中でも相手は本物の人間なのよ、それに母さんこそ、大学に行ってるときはよく電話一本で料理を丸ごと無駄にさせるじゃないの——と、いくつもの反論が頭を過ぎった。しかし明日奈は再び下を向き、震える息を深く吐いた。かわりに出てきたのは、短い一言だけだった。 「……ごめんなさい。次から気をつけます」 「次はもうないわよ。今度これのせいで決まりごとをおろそかにしたら、機械は取り上げます。だいたい……」  京子は口もとをかすかに歪めると、明日奈の額にかかったままのアミュスフィアを一瞥した。 「お母さん、あなたがわからないわよ。そのおかしな機械のせいで、あなた大切な時期を二年間も無駄にしちゃったのよ? 見るのも嫌だとは思わないの?」 「これは……ナーヴギアとは違うわ」  呟いて、頭から二重の金属円環を外す。SAO事件の反省から、アミュスフィアに施されている何重ものセーフティ機構について口にしようとしたが、すぐに言っても無駄だと思い直した。それに、使っている機械が異なるとは言え、VRMMOゲームのせいで明日奈が二年に渡って植物状態に陥ったのは事実だ。その間、京子が多いに心配したのは確かだろうし、一時は明日奈の死をも覚悟したそうだ。母親がマシンを嫌う気持ちは解るし、理解しなければならない。  明日奈が黙っていると、京子は大きなため息をついて、ドアの方に向き直った。 「食事にするわよ。すぐに着替えて降りてきなさい」 「……今日はいらない」  夕食を作ってくれたハウスキーパーの明恵に悪いと思ったが、とても母親と向かい合って食事をする気にはならなかった。 「——好きにしなさい」  かすかに首を振って、京子は部屋を出ていった。かちんと音を立ててドアが閉まると、明日奈は制御パネルに手を伸ばしてエアコンの運転モードを急換気に変え、母親のつけていた強いコロンの残り香を追い出そうとしたが、それはいつまでもしつこく漂いつづけた。 “絶剣”ユウキとその魅力的な仲間達との出会い、そして新たな冒険の予感が残したわくわくする気持ちは、陽に照らされた雪球のように跡形も無く消えてしまっていた。  明日奈は立ち上がり、クローゼットを開けると、色褪せて膝に穴のあいたジーンズを引っ張り出して足を通した。プリントもののトレーナーをかぶり、合成素材の白いダウンジャケットを引っ掛ける。  手早く髪を整え、ヒップバッグと携帯端末を掴んで足早に部屋を出た。階段を降り、玄関ホールでスニーカーを履いて重いドアを押し開けようとしたとき、横の壁に設置されたパネルから鋭い声が響いた。 『明日奈! こんな時間にどこに行くの!?』  だが明日奈はそれには答えず、母親に遠隔操作でドアをロックされる前にノブを回した。両開きの扉が開け放たれた瞬間、双方の側面から音を立てて金属のバーが飛び出したが、ぎりぎりのタイミングで先んじた明日奈はするりと外に抜け出した。湿気を含んだ冷たい夜気が顔を叩く。  足早に車回しを横切り、ゲート脇の通用口から家の敷地外に出ると、明日奈はようやく詰めていた息を吐き出した。呼気が目の前に白く漂い、たちまち薄れて消える。ジャケットのジッパーを首元まで引き上げ、両手をポケットに突っ込むと、東急宮阪駅の方へと歩きはじめた。  行く宛がある訳ではなかった。母親にあてつけるように家を飛び出てみたものの、これが単なる子供っぽい反抗のポーズに過ぎないことは明日奈にもわかっていた。ジーンズのポケットに入っている端末には位置情報モニター機能があり、母親には明日奈が何処にいるか逐一知られてしまう。だからといって端末を置いてくるほどの度胸があるわけでもない。そんな自分への苛立ちが、胸の奥の無力感をいや増していく。  大きな屋敷が連なる住宅街のなかに、ぽつんと佇む小さな児童公園の前に差し掛かり、明日奈は足を停めた。入り口に立つ逆U字型の金属パイプに腰を乗せ、ポケットから端末を引っ張り出す。  ぱちんと開いて親指でキーを操り、画面にキリト——和人の番号を呼び出す。コールボタンに指を置き、しかし、明日奈はそこでまぶたを閉じて俯いた。  和人に電話して、ヘルメットを余計に一つ持ってバイクで迎えにきて、と言いたい。やかましいけれど速いバイクの後ろに跨って、和人の腰にぎゅっと手を回して、新年でがらがらの幹線道路をどこまでも真っ直ぐ飛ばしてほしい。そうすればきっと、アルヴヘイムで全力飛行するときのように、頭のなかのもやもやはたちまち消えてしまうだろうに。  けれど、いま和人に会ったら、感情を抑えきれずに、泣きながら何もかもを打ち明けてしまうだろう。学校を変わらなくてはいけないこと。ALOにも行けなくなるかもしれないこと。明日奈を既定の方向に押し流していく冷徹な現実と、それに抗えない自分——つまりは、ひた隠しにしてきた己の弱さそのものを。  明日奈は端末のボタンから指を離すと、それを静かに畳んだ。一瞬ぎゅっと握り締めてから、ポケットに戻す。  強くなりたい。かたときも揺るがない精神の強さ。扶養者に頼らず、自分の望む方向に進むための強さが欲しい。  しかし、同時に弱くなりたい、と叫ぶ声がする。自分を偽らず、泣きたいときに泣ける弱さ。すがりつき、わたしを守って、助けて、と言える弱さが欲しい。  降り始めた雪の一片が、頬に触れ、たちまち融けて流れた。明日奈は顔を上げ、仄白い闇のなかから落下してくるまばらな白点を、無言で見つめ続けた。 「えーとつまり、ユウキとジュン、テッチが近接前衛型、タルケンとノリが中距離、シーエンが後方援護型ってことね」  アスナは腕を組み、武器防具を装備したスリーピングナイツの面々を見回した。  昨夜紹介されたときは軽装の普段着姿だったが、今は全員がエンシェント・ウェポン級の武装に身を固めている。絶剣ユウキはきのうと同じ黒のハーフアーマーに細身のロングソード。サラマンダーのジュンは小さな身体に不釣合いとも思える赤銅色のフルプレートをがっちり装備し、背中には身長と同じほどの長さのある大剣を吊っている。  巨漢ノームのテッチも同じく肉厚のプレートアーマーに、さらに戸板のごとき巨大なシールドを携えている。武器はごつごつした突起を四方に伸ばした、いかにも重そうなメイスだ。  眼鏡のレプラホーン・タルケンはひょろっとした体を真鍮色のライトアーマーに包み、武器は恐ろしく長いスピア。その隣に立つ姉御肌のスプリガン・ノリは、金属を使っていない道着ふうのゆったりした防具をまとい、これまた天井に届きそうな長さの鉄棍を携えている。  そして、唯一のメイジらしいウンディーネのシーエンは、僧侶ふうの白と濃紺の法衣と、ブリオッシュのように丸くふくらんだ帽子を身につけ、右手に細い銀色のスタッフを下げていた。全体としてはバランスが取れたパーティーだが、強いて言えば補助回復役が少し弱い。 「ってことは、わたしはヒーラーに回ったほうがいいみたいだね」  腰のレイピアを剣帯ごと外しながらアスナが言うと、ユウキがすまなそうに首を縮めた。 「ごめんねーアスナ。あれだけ剣が使えるのに、後ろに回ってもらっちゃって」 「ううん、わたしじゃ盾役はできないし。そのかわり、ジュンとテッチにはばしばし叩かれてもらうから、覚悟してねー」  にやにや笑いを浮かべ、重装備の二人を見る。猛烈な体格差のあるサラマンダーとノームのコンビは一瞬顔を見合わせたあと、同時にがしゃんとアーマーの胸を叩いた。 「お、おう、まかせとけ!」  威勢はいいものの引き攣ったジュンの台詞に、全員が愉快そうな笑い声を上げる。  アスナはアイテムウインドウを開くと、外したレイピアをその中に格納し、替わりに魔力増幅効果のあるねじれた杖を取り出した。生木そのままの、先端に葉っぱが残る一見貧相なアイテムだが、実は世界樹のいちばん天辺の枝を切ったものだ。入手するには巨大な守護竜の猛攻撃をかいくぐる必要がある。 「さて、と」  杖でとん、と床を突き、アスナは言った。 「じゃあ、ちょいとボス部屋を覗きに行きますか」  連れ立ってロンバールの宿屋を出て、常夜の空に飛び立った。  予想したとおり全員がスティックなしの随意飛行で、その滑らかな飛びっぷりにアスナはあらためて感嘆する。とても、ALOにコンバートして間もない者たちとは思えない。これはもう、VRMMOゲームに対する慣れというよりも、その根幹を成すNERDLES技術そのものへの適応力が高いと言わざるを得ない。稀にそのようなプレイヤーがいるのは確かだが、アスナの長いゲームプレイ経験のなかでも、直接知っているのはキリトやリーファといったごくわずかな数に留まっている。  それが六人も集まっているとは、一体どのような経緯で結成されたギルドなのだろうか。よくよく考えてみると、今日は一月八日であり、世間一般では仕事始め学期始めである。アスナの学校は万事余裕のあるカリキュラムのせいでまだ数日の休みが残っているが、ギルドメンバー六人全員をこんな昼間に集めるのは普通ではなかなか困難なのではないだろうか。  単純に考えれば、突出した強さのことも含め、ゲームに実生活のすべてを費やす超コアプレイヤーの集団である、と判断するのが妥当だろう。しかしアスナは、それも違うと感じていた。スリーピングナイツの面々からは、その手のギルドにありがちな我執の強さが見て取れない。皆が皆、どこか清流のような透明感を身にまとっている。  いったい、生身のプレイヤーはどのような人たちなのだろう、とアスナがいつもなら殆ど気にしないことを考えていたその時、前方を飛ぶユウキが相変わらず元気な声で叫んだ。 「見えたよ、迷宮区!」  はっとして眼を凝らすと、連なる岩山の向こうに、一際巨大な塔が見えた。円筒形のそれは地上から上層部の底までまっすぐに伸びている。根元からは、ひとつが小さな家ほどもありそうな水晶の六角柱がいくつも突き出し、放つ青い燐光で闇のなかの塔をぼんやりと照らし出している。迷宮への入り口は、塔の下部にぽっかりと黒く開いていた。  しばしホバリングし、入り口の周囲にモンスターや他パーティーの姿がないのを確認してから、ゆっくり降下する。最後尾のアスナは、地に足がつくと、六人に続いて巨大な塔を見上げた。空中から眺めるのとはまた異なる、まさしく威容と言うべきその姿に、しばし圧倒される。 「……じゃあ、打ち合わせどおり、通常モンスターとの戦闘は極力回避で行きましょう」  アスナが言うと、さすがに顔を引き締めたユウキたちは無言で頷いた。それぞれ腰や背中に手をやり、じゃりんと音高く得物を抜く。  シーエンが銀のスタッフを掲げ、立て続けにいくつもの補助スペルを詠唱した。七人のパーティーメンバーの体をライトエフェクトが包み、視界の右端、HPバーの下部に複数のアイコンが点灯する。つづいてノリがキャスティングを行い、全員に暗視魔法を掛けていく。  準備が完了したところで、もういちど顔を見合わせて頷きあい、前衛のユウキから迷宮区に踏み込んだ。入り口からしばらく続いた天然の洞窟が、石畳を組み合わせた人工の迷宮に変わると、明らかに周囲の温度が下がり、湿った冷気がアスナの肌を撫でた。  SAO時代に散々苦労させられたとおり、迷宮区内部はうんざりするほど広く、また出現モンスターのレベルもフィールドとは比較にならない。その上、アルヴヘイム地上に存在するダンジョン群と同じく、中ではまったく飛行できない。マップデータはあらかじめ購入しておいたが、それでもボス部屋までは最短でも三時間はかかるだろう。  ——と、事前に予想していたのだったが。  わずか一時間と少しで、目の前に幅広の回廊とその奥の巨大な扉が出現したとき、アスナはあらためてユウキたちの実力に舌を巻く思いだった。個々の戦闘能力はそれなりに把握していたつもりだったが、更に見事と言うべきは六人の連携技術だ。言葉もなしに、小さな身振り手振りだけで立ち止まるべきところは立ち止まり、突っ切るところは突っ切っていく。アスナはほとんど、パーティーの最後尾をただ付いていけばよかった。モンスターと戦闘になったのはたったの三回であり、それすらも、アスナの指示に従って瞬時にリーダーの個体を屠ったため敵群が混乱したところを簡単に振り切ることができた。  ボス部屋への回廊を前進しながら、アスナは少々ぼやきたい気分で傍らのシーエンに囁きかけた。 「なんだか……わたし、本当に必要だったのかなあ? あなたたちを手助けできる余地なんて、ほとんどないような気がするんだけど……」  すると、シーエンは目を丸くして、ふるふるとかぶりを振る。 「いえ、とんでもない。アスナさんの指示があったからトラップも一度も踏みませんでしたし、戦闘もすごく少なくてすみましたし。前の二回では、遭遇する敵ぜんぶと正面から戦っちゃったので、ボス部屋につく頃には随分消耗しちゃって……」 「……それはそれで凄いけどね……——っと、ユウキ、止まって」  アスナが少し高めた声で言うと、前衛三人はぴたりと足を止めた。  すでに、ボス部屋へと続く長い回廊も半ば以上を踏破し、突き当たりの、おどろおどろしい装飾を施された石扉の細部までが見て取れる。回廊の両脇には一定間隔で円柱が立っているが、その陰を含めて、モンスターの姿はない。  訝しそうな顔で振り向くユウキやジュンに向かって、唇に人差し指をあててみせてから、アスナは大扉の左側、最後の円柱の向こう側に視線を凝らした。  回廊の照明は、円柱上部の壁龕に据えられた火皿の青白い炎だけだ。ノリの暗視魔法の補助があっても、ゆらゆら揺れる石壁の影の微細な動きは捉え難い。が、直感的に、アスナは視界の一部分に違和感を覚えたのだった。  手振りでユウキたちを退がらせて、アスナは右手の杖を掲げた。早口で少し長めのスペルワードを組み立てながら、左手の平を胸の前で上向ける。  詠唱が完了すると、手の平のうえに、胸ヒレを長く伸ばした小さな魚が五匹出現した。青く透き通るその魚たちに顔を寄せ、目指す方向に向かって軽く息を吹きかける。  途端、魚たちはぴちちっと跳ねてから、空中を一直線に泳ぎはじめた。対隠蔽呪文用精霊『サーチャー』を召還したのだ。五匹はわずかな角度をつけて放射状に泳いでいき、うち二匹が、アスナの眼に止まった空気の揺らぎの中に突入した。  ぱあっと青い光が広がった。サーチャーが消滅し、その奥で、一瞬だけ緑色の膜が出現してから、たちまち溶け崩れるように消えた。 「あっ!」  ユウキが驚いたような声を上げた。さっきまで何もなかった円柱の向こうに、忽然と三人のプレイヤーが姿を現したのだ。  アスナは素早く視線を走らせた。インプ二人、シルフ一人、全員が短剣装備の軽装だ。と言っても、武装のグレードはかなり高い。知った顔はなかったが、カーソル横に表示されたギルドタグには見覚えがあった。中盤以降、アインクラッドの迷宮区を立て続けに攻略している大規模ギルドのエンブレムだ。  迷宮区で、周囲にモンスターもいないのにハイドしているとは穏やかではない。一般的にはPKの手口だ。アスナは向こうの遠距離攻撃に備えて再び杖を掲げ、傍らでユウキたちもがしゃりと武器を構えなおす。  だが、予想に反して、三人組のひとりが慌てた様子で片手を上げて叫んだ。 「ストップストップ! 戦う気はない!」  焦った声の調子は演技とは思えなかったが、アスナは警戒を解かずに叫び返した。 「なら、剣を仕舞いなさい!」  すると、三人は顔を見合わせ、すぐにそれぞれの短剣を腰の鞘に収めた。アスナはちらりとシーエンを振り返り、囁いた。 「連中がもう一度抜剣するそぶりを見せたら、すぐにアクアバインドを掛けて」 「わかりました。うわあ、対人戦ははじめてですよ。どきどきしますね」  どきどきというよりもワクワクしているかのように目を輝かせるシーエン及び仲間たちの様子に、わずかに苦笑してから、アスナは三人組に向き直った。ゆっくりと数歩近寄り、言う。 「PKじゃないなら……何が目的でハイドしてたの?」  再びちらりと視線を交わしてから、リーダーとおぼしきインプが答えた。 「待ち合わせなんだ。仲間が来るまでにMobに襲われたら面倒なんで、隠れてたんだよ」 「…………」  もっともらしく聞こえるが、どこか怪しい。隠蔽呪文使用中は馬鹿にならない速度でマナが消費されるため、数分ごとに高価なポーションを飲み続ける必要がある。そもそもこんな迷宮の最奥まで辿り付けるなら、そこまでしてモンスターとの戦闘を避ける必要は無いはずなのだ。  しかし、これ以上こちらから難癖をつけることもできそうになかった。万難を排するならこちらからキルするという手もあるが、大規模ギルドとトラブルになると後々色々面倒なのも確かだ。  アスナは疑問を飲み込んで、軽く頷いた。 「わかったわ。——わたし達、ボスに挑戦に来たんだけど、そっちの準備がまだなら先にやらせてもらってもいいわね?」 「ああ、もちろん」  ことによると、更に巧言を重ねてボスモンスターへの挑戦を妨害してくるかも、と予想したのだが、あにはからんや痩身のインプは短く即答した。そのまま、二人の仲間を手振りで下がらせ、自らも大扉の脇へと退く。 「俺たちはここで仲間を待つから、まあ、がんばってくれや。じゃあな」  わずかな笑みを頬に浮かべ、インプは仲間のシルフのほうにあごをしゃくった。頷くと、シルフは両手を掲げ、慣れた口調でスペルワードの詠唱を開始する。  たちまち、術者の足元から緑色の空気の膜が沸きあがり、三人の体を覆い包んだ。すぐに膜の色がすうっと薄れ、揺らぐように消えたときには、そこにはもう誰の姿も見えなかった。 「…………」  アスナはしばらく口もとを引き締めたまま、再びハイドした男達のほうを見つめていたが、やがて肩をすくめるとユウキのほうに向き直った。絶剣の異名を持つ少女は、いまの不穏なやり取りにもまったく気分を害した様子は無いようで、大きな紫の瞳をきらきらさせたまま、アスナに向かって軽く首をかしげてみせる。 「……とりあえず、予定どおり一度中の様子を見てみましょう」  アスナが言うと、ユウキはにいっと笑いながら大きく頷いた。 「ん、いよいよだね! がんばろ、アスナ!」 「様子見と言わず、ぶっつけでぶっ倒しちゃうくらいの気合で行こうぜ」  威勢のいいジュンの言葉には、アスナも笑いを返すしかない。 「まあ、それが理想だけどね。でも、無理して高いアイテム使ってまで回復しなくていいからね。あくまで、わたしとシーエンがヒールできる範囲内でがんばるってことで、いいわね」 「はい、先生!」  茶目っ気たっぷりに答えるジュンのおでこを指で突いておいて、アスナは他の五人を順繰りに見ながら続けた。 「死んでも、すぐには街に戻らないで、ボスの攻撃パターンをしっかり見ておいてね。全滅したら、いっしょにロンバールのセーブポイントに戻るってことで。——フォーメーションは、ジュンとテッチが最前面でひたすら耐える。タルケンとノリはその両翼から攻撃。ユウキは自由に遊撃、可能ならボスの背面に回ってみて。で、わたしとシーエンが後方で補助回復、と」 「了解」  一同を代表して巨漢のテッチが重々しい声で言う。左手のタワーシールドをがしゃりと掲げ、右手のメイスを肩に担ぎ、大扉のすぐ前にジュンと並んで立つと、ちらりとアスナを振り向いた。  アスナがぐいっと頷き返すと、ジュンが空いている左手を扉に掛けた。肩を怒らせ、ぐいっと力を込める。  黒光りする岩でできた二枚扉は、一瞬抵抗するかのように軋み声を上げたあと、ごろごろと雷鳴に似た音を回廊全体に響かせながらゆっくりと左右に割れはじめた。内部は完全な闇——  と思ったのも束の間、ドアのすぐ前で、青白いかがり火が二つ、ぼうっと吹き上がった。続いて、さらに左右に二つ。わずかな時間差を置いて、無数の炎が輪を描くように立ち上っていく。  ボス部屋は完全な円形だった。床面は磨かれたような黒石、広さも相当なものだ。いちばん奥の壁に、上層へと繋がる階段を隠す扉が見える。 「——いくわよ!」  アスナが叫ぶと同時に、ジュンとテッチが思い切りよく部屋の内部に走り込んだ。残る五人もすぐに後を追う。  全員が、決めたとおりのフォーメーションにつき、それぞれの武器を音高く構えた、次の瞬間。部屋の中央に、荒削りの巨大なポリゴンが湧出した。黒いキューブ状のそれは、たちまち幾つも組み合わさり、角が面取りされ、みるみるうちに情報量を増していく。  最後に、ばしゃーんと無数の破片を宙に散らして、ボスモンスターが実体化した。身の丈四メートルはあろうかという黒い巨人だ。見上げるほどでかい上に、頭が二つ、腕が四本あり、それぞれの手に凶悪な形をした鈍器を握っている。  地震のごとく床を揺らして、巨人は着地した。下半身に対して上半身のボリュームが異様に大きく、体をかなり前傾させているが、それでも二つの頭ははるか上空に位置している。  赤く光る四つの眼で、アスナたちをしばし睥睨したあと、巨人は轟くような咆哮を上げた。上側の二つの手に握られた破城槌並みのハンマーを高く振り上げ、下側の二本の腕で、錨も吊るせそうな太い鎖を床に打ち付けて——。 「だああああ、負けた負けた!!」  最後に転移してきたノリが、ばんばんタルケンの背中を叩きながら、愉快そうに喚いた。  ロンバール中央広場に面した、ドーム状の建物の中。部屋の真ん中、一段低くなった床に立つ位置セーブクリスタルの周囲に、アスナたち七人は転送されていた。無論、六十七層ボスである黒巨人の猛攻の前にあえなく全滅したからである。 「ううー、がんばったのになあー」  無念そうに肩を落とすユウキの襟首を、アスナはがっしと掴んだ。 「ふえ?」  いぶかしい顔をするユウキを引っ張り、そのまま部屋の隅へと走り出す。 「みんなも、早くこっちきて!」  とりあえず宿屋に戻って休憩兼残念会、などと言っていたジュンたちも、ぽかんと顔を見合わせたあと、すぐに後を駆けてくる。  建物の中には誰の姿もなかったが、念を入れて入口まで声の届かない場所に全員を集めると、アスナは早口で捲し立てた。 「のんびりしてる余裕はないわよ。ボス部屋の前にいた三人、覚えてるでしょ?」 「ええ、はい」  シーエンがこくりと頷く。 「あれは、ボス攻略専門ギルドの偵察隊だわ。同盟ギルド以外のプレイヤーがボスに挑戦するのを監視してるのよ。多分、前の層も、その前も、ユウキたちがボスと戦ってるところをハイドして見てたはずよ」 「えっ……わあ、ぜんぜん気付かなかった!」 「恐らく、わたし達の人数から、攻略に成功する可能性は無いと判断したのね。だから、妨害よりもボスと戦わせて攻撃パターンの情報収集することに作戦を切り替えたのよ」 「ううー、もしかして今までボクたちが全滅したあと、すぐに攻略されちゃったのはそのせいなの……?」 「間違いないわね。ユウキたちががんばりすぎて、ボスの手の内を最終段階まで丸裸にしたから、彼らも攻略に踏み切れたんだと思う」 「と、いうことはつまり……」  シーエンが柳眉をひそめて呟く。 「今回も、噛ませ犬役を演じてしまったということですか……?」 「……なんてこった」  タルケンの嘆き声に、五人もがっくりと肩を落とそうとしたが、その前にアスナはばしんとユウキの肩を叩いた。 「ううん、そうと決まったわけじゃないわ!」 「え……? どういうことなの、アスナ?」 「まだ現実では昼の二時半、こんな時間に何十人も集めるのは、いくら大規模ギルドでも大変なはずだわ。少なく見積もっても二時間くらいはかかると思う。その間隙を突くのよ。——いい、あと五分でミーティングを終えて、三十分でボス部屋まで戻る!」 「ええー!?」  さすがのスリーピングナイツ達も、今度こそは驚愕の声を上げた。それに向かって、アスナはにこっと笑いかける。 「わたし達ならできるわ。それに——ボスもきっと倒せる」 「ほ、ほんと!?」 「きっちり冷静に、弱点を突ければね。作戦はこうよ。ボスは巨人型、多腕なのが厄介だけど、正面をきっちり作れる分、非定型クリーチャータイプよりマシだわ。攻撃パターンは、ハンマーの振り下ろし、鎖の薙ぎ払い、頭を下げての突進。HPが半減してからは、プラス広範囲ブレス攻撃。さらにHPが減ると、武器四つでの八連撃ソードスキル……」  アスナは床にホロパネルを広げると、手早くボスの攻撃パターンを列挙した。次に、それぞれに対する詳細な防御方法を指示していく。 「……だから、ジュンとテッチは鎖は無視していいわ。ひたすらハンマーに集中して。次に弱点だけど、ハンマーの振り下ろし攻撃を、武器や盾で受けないで空振らせて、床を叩かせるとコンマ七秒くらい硬直時間があるわ。その隙を逃さずに、ノリとタルケンはきっちり強攻撃を入れて。あと、背中側にもかなりの隙がある。ユウキはひたすらバックを取って、突進系のソードスキルで攻めていいわ。鎖は真後ろまで届くから気をつけてね。で、ブレスへの対応だけど……」  作戦会議でこんなに喋ったのは、間違いなく血盟騎士団時代以来だ、と心の隅で思いながら、アスナは思い切り口を回転させた。六人は真剣な顔でこくこくと頷きつづけている。  まるで学校の先生にでもなったかのような感慨をおぼえつつ、アスナはぴたり四分でレクチャーを終えた。次にアイテム欄を開くと、預かっていた攻略予算で買い込んだ大量の回復ポーション類を、まとめて実体化させる。  がしゃがしゃんと音を立て、床の上に色とりどりのガラス瓶の山が出来た。それを、先刻の挑戦で皆が受けたダメージ量に従って次々に分配していく。最後に、青い瓶に入ったマナ回復薬を自分とシーエンのポーチに放り込み、すべての準備が完了した。  アスナは背筋をぴしっと伸ばすと、全員の顔を見回して、微笑みながら力強く頷いた。 「もう一度言うけど、あなた達……ううん、わたし達なら、あのボスに勝てる。ずーっと前からここで戦ってるわたしが保証するわ」  すると、ユウキもいつもの邪気の無い笑みを浮かべ、言った。 「ボクの勘は間違ってなかったよ。アスナに頼んでよかった。もし攻略がうまくいかなくても、ボクの気持ちは変わらないからね。——ありがとう、アスナ」 「……その言葉は、祝勝会の時までとっておいてね。じゃ……もう一度、がんばろう!」  再びロンバールを飛び立った六人は、掛け値なしの全速飛行で迷宮区を目指した。最短距離をまっすぐ飛んだので、フィールドモンスターに何度かターゲットされたが、ノリの幻惑魔法で眼をくらませて一気に突っ切る。  巨塔まではほんの五分で辿り付いた。立ち止まらずに入り口に飛び込み、今度は足を使って最上階へと駆け抜ける。さすがに狭いダンジョンの中では、モンスター群の真ん中を突破するわけには行かなかったが、かわりに絶剣ユウキがその本領を発揮し、リーダー個体をほとんど一息に斬り倒した。  設定したタイマーが二十八分を経過したとき、ついに目の前にボス部屋へと続く回廊が現われた。広い通路は、ゆるく右に湾曲しながら、螺旋状に塔の中央部まで伸びている。 「おっしゃあと二分ッ!!」  ジュンが叫ぶと、ユウキの前に立ってスプリントを始めた。 「あっ、こらまてー!」  それをユウキが追っていく。  このぶんなら、どうにか例のギルドの鼻を明かせそうだ、と思いながら、アスナも懸命に走った。ぐるぐると円を描きながら一行はたちまち回廊を走破し、ついに例の大扉が目の前に—— 「!?」  扉の前に広がる光景に、アスナは驚愕しながら両足でブレーキを掛けた。ユウキとジュンも、ブーツで床をがりがり擦りながら急停止する。 「な……なんだい、これ……!?」  アスナの傍らで、ノリが呆然と囁いた。  ボス部屋の扉へと至る、長さ十メートルほどの回廊は、およそ二十人ほどのプレイヤーでぎっしりと埋まっていた。  種族はまったくバラバラだが、唯一共通しているものがあった。全員のカーソル横のギルドエンブレムだ。さきほど、扉の前でハイドしていた三人と同じものである。  遅かった!? まさかこんなに早く——、と内心で歯噛みしてから、アスナはおや、と思った。ボス攻略にしては、人数が少ない。二十人、つまり三パーティーというのは、噂に聞くこのギルドの攻略チームのおよそ三分の一程度である。  つまりまだ全員が集まっているわけではないのだ。こんな迷宮の最奥部を集合場所にするとは大胆な話だが、その分連中も焦っているということか。  アスナは流石に眉をしかめているユウキの隣に歩み寄ると、濃紺のロングヘアに隠された耳に口を寄せた。 「大丈夫、一回は挑戦できる余裕はありそうだわ」 「……ほんと?」  ほっとしたような顔を見せるユウキの肩をぽんと叩き、アスナはつかつかと集団へ歩み寄った。全員がまっすぐ視線を注いでくるが、何故か口もとに妙なにやにや笑いを浮かべている者が多い。  それを無視して、アスナは集団のいちばん前に立つ、一際ハイランクの武装をまとったノームに話し掛けた。 「ごめんなさい、わたし達ボスに挑戦したいの。そこを通してくれる?」  だが、太い腕を見せつけるように前に組んだノームは、アスナの予想の及ばないことを口にした。 「悪いな、ここは今閉鎖中だ」 「閉鎖……って、どういうこと……?」  唖然としながら訊き返す。ノームは大げさに眉を上下させると、何気ない口調で続けた。 「これからうちのギルドがボスに挑戦するんでね。今、その準備中なんだ。しばらくそこで待っててくれ」 「しばらくって……どのくらい?」 「ま、一時間てとこだな」  ここに至って、ようやくアスナは男達の魂胆を理解した。彼らは、ボス部屋前に偵察隊を配置して情報収集に当たらせるだけでなく、攻略に成功しそうな他集団が現われたときには更に多人数の部隊で通路を物理的に封鎖するという作戦を取っているのだ。  このところ、一部の高レベルギルドによる狩場の独占が問題になっているという噂は聞いていた。だがよもや、中立域においてこんな露骨な占領行為がまかり通っているとはまるで知らなかった。  自然に声が尖ろうとするのをどうにか堪えながら、アスナは言った。 「そんなに待っている暇はないわ。そっちがすぐに挑戦するっていうなら別だけど、それが出来ないなら先にやらせて頂戴」 「そう言われてもね」  しかしノームはまったく動じる様子もない。 「こっちは先に来て並んでるんだ。順番は守ってもらわないと」 「それなら、準備が終わってから来てよ。わたし達はいつでも行けるのに、一時間も待たされるなんて理不尽よ」 「だから、そう言われても、俺にはどうにもできないんだよ。上からの命令なんでね、文句があるならギルド本部まで行って交渉してくれよ。十六層にあるからさ」 「そんなとこまで行ってたらそれこそ一時間経っちゃうわよ!」  つい大声で言い返してしまってから、アスナは唇を噛み、自分を落ち着かせるために大きく深呼吸した。  どう交渉しても、彼らに道を空ける気はないらしい。ならばどうするか。  ボスがドロップする金品をすべて提供するという取引を申し出るというのはどうだろう。いや、ボス攻略の魅力はアイテムだけではない。莫大なスキルアップポイントと、剣士の碑に名を残す名誉という実体のない付随物もある。とても連中が飲むとは思えない。  あるいは、不当行為としてGMに訴え出るという手段もあるにはある。しかし、基本的に運営サイドはプレイヤー間のトラブルには干渉したがらないし、双方の言い分を申し立てて裁量を待っているうちにも時間はどんどん過ぎていく。  八方塞りで立ち尽くすアスナを高いところから一瞥して、ノームは交渉終了と見たか身を翻し、仲間のほうに戻ろうとした。  その背中に向かって、アスナの斜め後ろにいたユウキが声を投げかけた。 「ね、君」  立ち止まり、肩越しにひょいと振り返るノームに、いつもの笑顔のままのユウキは元気な声で訊ねる。 「つまり、ボクたちがこれ以上どうお願いしても、そこをどいてくれる気はないってことなんだね?」 「——ぶっちゃければ、そういうことだな」  直截なユウキの物言いに、ノームもさすがに鼻白んだ様子だったが、すぐに倣岸な態度を取り戻して頷いた。それに向かって、ユウキはにっこりと笑いかけると、短く言った。 「そっか。じゃあ、仕方ないね。戦おう」 「な……なに!?」 「ええ……?」  ノームの男と同時に、アスナも驚いて声を漏らした。  中立域ではプレイヤー・キルが可能なALOではあるが、実際にプレイヤーを襲う行為にはルールに明文化されている以上のしがらみが色々と付随する。相手が、大規模なギルドの所属員であるとなれば尚更だ。たとえその場では勝利しても、事後にギルドあげての報復があるかもしれないし、恨みをゲーム外にまで持ち出されることだって無いとは言えない。最初からPKをプレイスタイルとしている者以外は、大ギルド相手に戦闘を吹っかけることはほとんどできないのが実情なのだ。 「ゆ……ユウキ、それは……」  そのへんのことをどう説明したものか、アスナは口を開いたものの言葉に詰まった。そんなアスナの背中を、ユウキは笑みを消さないまま、ぽん、と叩く。 「アスナ。ぶつからなきゃ伝わらないことだってあるよ。例えば、自分がどれくらい真剣なのか、とかね」 「ま、そういうことだな」  背後でジュンが相槌を打つ。振り返ると、五人とも平然とした態度でそれぞれの武器を握りなおしている。 「みんな……」 「封鎖してる彼らだって、覚悟はしているはずだよ。最後のひとりになっても、この場所を守りつづける、ってね」  ユウキは再びノームに視線を投げかけると、小さく首を傾け、言った。 「ね、そうだよね、君」 「あ……お、俺たちは……」  まだ驚きから醒めやらぬ様子の男に向かって、腰の剣を音高く抜き、ぴたりと剣尖を据える。ふっ、と口もとの笑みを薄れさせ—— 「さあ、武器を取って」  ユウキのペースに飲まれたように、ノームは腰から大ぶりのバトルアックスを外すと、ふらりと構えた。  次の瞬間、小柄なインプの少女は、一陣の突風となって回廊を駆けた。 「ぬあっ……」  ようやく事態を理解したとでもいうように、ノームは目を丸くして唸り声を上げると、大きく斧を振りかぶる。だが、その動きはいかにも遅すぎた。ユウキの黒曜石の剣は、闇色の軌跡を残して低い位置から跳ね上がり、男の胸の真ん中を捉えた。 「ぐっ!」  ユウキの一・五倍近い身長のノームは、その一撃だけでぐらりと体勢を崩した。そこに、真っ向正面の上段斬りが襲い掛かる。どすっ、と重い音を立ててノームの肩口に剣が食い込み、HPバーを大幅に削り取る。 「ぬおおおお!!」  ついに男は怒りの雄叫びを上げ、目の前の少女に向かって思い切り斧を振り下ろした。さすがに有名ギルドでパーティーリーダーを張るだけあって、そのスピードは中々のものだったが、“絶剣”ユウキの相手はいかにも荷が重すぎた。  バキィン、と甲高い音がして、斧はユウキに触れるはるか以前に大きく弾かれた。体を泳がせるノームの眼前で、ユウキはぐうっと弓を絞るように右手の剣を大きく引いた。同時に、刀身が血のような赤い光を放つ。キリトが得意としていた片手剣用単発ソードスキル、『ヴォーパル・ストライク』だ。  爆発じみた衝撃音が回廊を突き抜け、壁を震動させた。ユウキの放った突き技はノームの胸の中央を深く貫き、そのHPバーをあっけなく吹き散らした。周囲を染めた真紅のライトエフェクトが消えると同時に、男の巨体を黄色い炎が包み、直後、その姿は溶け崩れるように消滅した。あとには、小さな残り火がひとつ漂うだけだ。  ボス攻略専門ギルドと銘打つだけあって、突然の襲撃には慣れていなかったのであろう残りの者たちは、ここに至ってようやく事態を呑みこんだようだった。 「て、てめえええっ!!」  一人のサラマンダーが腰から大ぶりの曲刀を抜き放つと、怒号を発した。それを合図に、全員がみるみる殺気立ち、それぞれの武器を高く掲げる。 「さて、私たちも行きますか」  シーエンがあくまで落ち着いた声で言うと、アスナの肩をぽんと叩いて微笑んだ。 「えー……っと……」  どういう顔をするべきか咄嗟に判断できず、とりあえず強張った笑みを浮かべてみたアスナのすぐ隣を、どりゃあああと威勢のいい声を上げながらジュンが駆け抜けていく。そのすぐ後ろにヘビーメイスを担いだテッチが続き、更に槍と鉄棍をプロペラのように回しながらノリとタルケンが追従する。  いまや明確に敵となった相手集団も、一戦交えると決まってからの動きは速かった。前面に重装甲のノームやサラマンダーが並び、鉄の壁と化して、一人突出しているユウキ目掛けて殺到してくる。  ユウキには、後退する気はさらさら無いようだった。いきなりソードスキルで迎撃するつもりらしく、大上段に高く振りかぶった剣がまばゆい紫に発光する。その右翼にジュンとタルケン、左翼にテッチとノリが突入し、くさび型のフォーメーションを作る。  双方が激突した瞬間、ががぁん!! という大音響が炸裂し、立て続けに幾つものライトエフェクトが弾けた。たちまち秩序なき混戦が始まり、広い回廊は剣戟の音に満ち溢れた。  ユウキが対人戦闘に熟達しているのは、アスナが自分の剣で確かめているが、彼女以外のメンバーも、戦う相手がモンスターからプレイヤーになったところでまるで臆することなく得物を振り回した。ジュンの大剣とテッチの戦槌は、その重量を活かして真正面から敵の防御を崩し、出来た隙をタルケンの長槍とノリの鉄棍が的確に捉えていく。ユウキのほうはと言えば、持ち前の超絶回避力を存分に発揮し、殺到する複数の武器をひょいひょいと掻い潜っては敵の懐に密着して、必殺のカウンターを叩き込んでいく。  数倍の人数相手に、まさに獅子奮迅と言うべきスリーピングナイツの戦いっぷりだったが、しかし敵集団も容易には倒れなかった。後方に控えたメイジ隊が途切れることなく回復魔法を詠唱しているせいだ。  あまりの乱戦による偶発的ヒットで、ユウキ以外のメンバーのHPも徐々に減り始めたようだった。アスナの隣でシーエンがヒール呪文の詠唱を始める。  と、集団からするりと抜け出し、アスナとシーエンに向かってダッシュしてくる影が二つあった。レザー系の軽鎧、手には鈍く光るダガーを装備したアサシンタイプだ。  その連中が、数十分前にボス部屋の前でハイドしていたプレイヤーだと気付いたとき、ようやくアスナも肚を決める気になった。長い杖を両手で構えると、頭上で風車のようにぶんぶん回転させ始める。 「ふんっ!!」  気合とともに体ごと振り回すと、黄色い光の帯を引きながら、世界樹の枝は飛び掛ってきたアサシン二人を真横から薙ぎ払った。コンコーン! と薪を割るような音を立てて二人は跳ね飛ばされ、床に叩きつけられる。  攻撃者たちは、まさかウンディーネのメイジから棒術系ソードスキルによる反撃を受けるとは思ってもいなかったようで、床に転がったまま一瞬目を丸くした。その隙を逃さず、アスナはダッシュで距離を詰めると、一人を回転系三連撃、もう一人を突き技四連撃で仕留める。  倒した相手が紫と緑の炎に包まれて消滅するのに目もくれず、アスナは振り返ると、シーエンに向かって言った。 「ヒールは一人で大丈夫?」  さすがに驚いたような顔をしながらも、シーエンはこくりと頷いた。 「ええ、多分間に合うと思います」 「じゃあ、わたしは敵のヒーラーを排除してくるわ」  にっ、と唇の端で笑ってみせて、アスナは手早くウインドウを出すと杖をアイテム欄に放り込み、かわりに愛用のレイピアを装備した。たちまち、腰の周囲を銀色の光が取り巻き、ミスリル糸を編んだ剣帯と、それにぶら下がる同素材の鞘が実体化する。  しゃらんと音を立てて細く長い剣を引き抜き、アスナは前方の混戦地帯を睨んだ。双方入り乱れた戦士たちはほぼ回廊の幅いっぱいに広がっているが、強いて言えば右側の層が薄い。  すーはー、と一回呼吸を整えて、アスナは思い切り石畳を蹴った。右手のレイピアを腰溜めに構え、全力でダッシュする。速度が充分乗ったところで、進行方向でこちらに背を見せて戦っているユウキに向かって大声で叫ぶ。 「ユウキ!! 避けて!!」 「へ……? ——わあ!?」  ひょいっと振り向いたユウキは、突進するアスナを視認するや慌てて飛び退った。そのむこうで、剣を振りかぶったまま硬直するサラマンダー目掛けて、アスナは姿勢を低くしてまっすぐ剣を突き出した。  ばっ、と剣先から純白の光が幾筋も迸り、たなびくようにアスナを包んだ。直後、ふわりと体が浮き上がる感覚。アスナは彗星のように長く光の尾を引きながら、猛烈なスピードで突進していく。 「うわああっ!!」  ようやく我に返ったサラマンダーは、左手の盾を体の前にかざそうとした。だがギリギリ間に合わず、その体の中央にレイピアの先端が触れた。  途端、まるで暴走する巨獣に轢かれでもしたかのように、サラマンダーは宙高く弾き飛ばされた。ユウキの剣によってHPをほとんど削られていたらしく、その体は空中にあるうちに真紅の炎を噴き上げて四散する。  彗星と化したアスナは、一人を屠ってもまったく勢いを削がれることなく、更に後方の敵本隊に向かって一直線に突入した。たちまち三、四人が同じように吹き飛ばされ、ある者は空を舞い、ある者は地面に叩きつけられる。細剣カテゴリの長距離突進系ソードスキル、『フラッシング・ペネトレイター』なる技だ。発動するためには充分な助走が必要なため、一対一の戦闘では使える場面はほとんど無いが、このように敵集団を突破するためには非常に有効な手段となる。  一瞬のうちに鎧と盾の鉄壁を貫通し、更に十メートル近くも飛翔してから、アスナはようやく迷宮の床に着地した。靴底でがりがりと火花を散らしながらブレーキをかけて停止し、うずくまったまま顔を上げる。目の前では六人ほどのローブをまとったメイジたちが固まり、呆然とアスナを見下ろしていた。 「どーも」  アスナはにこっと笑いかけると、立ち上がりながら右手のレイピアをぎゅん、と後ろに引き絞った。  集団戦になにより重要なのは、実は前面に立つ近接戦闘要員の能力よりも、後方のバックアップ態勢である。そんなわけで、回復要員を排除された敵集団は、ユウキたちの猛攻撃の前にあっけなく潰滅した。  アスナが再びレイピアを仕舞い、杖を取り出していると、近寄ってきたユウキがばしんと背中を叩いた。 「やるねえアスナ! ボクでもなかなかあんな無鉄砲な突撃はしないよー」  あはは、と笑われ、アスナもやや複雑な笑みを返す。 「そ、その言われ方は心外だなあ。先に彼らをぶっとばしちゃったのはユウキじゃない」 「うーん、まずかったかなあ……?」  今更のように首を傾げられると、アスナも笑いながら否定するしかない。 「ううん、そりゃちょっと驚いたけど、終わってみればこうするしかなかったって感じだし。それに……」  じっ、とユウキの大きなアメジストの瞳を見る。 「なんだか、忘れてたことを思い出させてもらった感じ。ぶつからなければ、伝わらないこともある……。ほんと、そうだよね」 「ぼ、ボク、そんな深い意味で言ったわけじゃないよ」  照れたように肩をすくめるユウキに向かって、アスナはもう一度微笑みかけた。 「わたしも、ずーっと昔は知ってたはずなんだ。本音を飲み込んじゃダメな時だってある……」 「……?」 「……ねえ、ユウキ」  不思議そうに目をしばたかせるユウキに向かって、アスナは口を開きかけたが、思い直して首を振った。 「ううん、ごめん、後にする。それより、さっきの人たちがまた押しかけてくる前にボスを倒しちゃわないと」  先刻まで床に漂っていた二十幾つのリメインライトは全て消え去っていた。恐らくロンバールのセーブポイントで蘇生し、攻略ギルドの本隊と合流したあとは、数倍の勢力になって殺到してくるだろう。  アスナは振り向くと、五人の仲間たちに声を掛けた。 「みんな、だいじょぶ? 疲れてない?」 「へーきへーき! これくらいで消耗するような鍛え方はしてないって!」  肩に鉄棍を担いだノリが、がっはっはと笑いながら隣のタルケンの背中をばしばしと叩く。のっぽのレプラホーンは、眼鏡をずり下げながらわざとらしくゴホゴホ咳き込んでみせるが、激戦に疲労した様子はまるで無い。  あはは、と笑いながら、アスナは視界の端のHP、MPバーを確認した。戦闘直後に飲んでおいたポーションの効果で、ちょうどフル回復したところだった。  皆が全快したのを確認したユウキがぱちんと両手を叩き、元気な声で言った。 「じゃ、もいっちょ行こっか!」  おー、と唱和しつつ、アスナたち六人はそれぞれの武器を高く掲げる。手早く打ち合わせどおりの隊列に並びなおし、アスナとシーエンの補助スペル詠唱が終わったところで、ユウキが右手を回廊どんつきの大扉に掛けた。一瞬ぐっとためてから、思い切り開け放つ。  今度は青いかがり火がすべて点灯するのを待つことなく、全員が内部に駆け込んだ。この照明の演出は全フロアで共通しており、最初のひとつが灯ってからボス湧出が終わるまでが、攻略参加の猶予時間となる。  重低音を響かせながら、四角い岩のようなポリゴンが出現した。みるみるディティールが増加し、黒巨人がその姿をほとんど完成させたころ、背後の回廊から遠く無数の靴音とときの声が響いてきたが、アスナはもうほとんど注意を払わなかった。  雷鳴のような雄叫びを轟かせ、ボスモンスターがずしんと着地するのと同時に、両扉が重く震動しながら動き出し、数秒でぴたりと閉ざされた。  小瓶の栓を親指で弾き飛ばし、中の青い液体を一息に呷りながら、アスナはマナ回復薬の残存数をちらりと確認した。腰のポーチにぎっしりと詰まっていたはずのポーションだが、四十分を超える激戦のあいだにみるみる消費され、残すところあと三本だけとなってしまった。一緒にヒーラー役を受け持っているシーエンのほうも似たような状況だろう。  前衛攻撃役の面々も限界まで頑張ってはいるのだ。黒巨人の攻撃パターンのうち、回避可能なものは全て避けている。しかし、巨人のふたつの口から時折放たれる毒属性の広範囲ブレスと、二本の鉄鎖で周囲を狂ったように薙ぎ払う全方位攻撃だけはいかんともし難い。その二つが飛び出すたびに、アスナとシーエンは最上級の全体回復スペルの詠唱を余儀なくされるため、マナポイントがいくらあっても追いつかない。  こちらの攻撃も、ノリの棍とタルケンの槍、ユウキの剣がもう無数にクリーンヒットしているのだが、まるで耐久力無限の鉄壁を叩いているような嫌な手応えだ。ボスは時折四本の腕を体の前で交差させて防御姿勢を取り、そうなると実際に鉄のように硬くなってすべての攻撃を弾くため、徒労感もいや増していく。  喉元までせり上がってくる焦燥感を、ポーションと一緒にむりやり飲み下して、アスナは声を張り上げた。 「みんな、もうちょっとだよ! もうちょっとだけ、頑張ろう!」  ——と言ってはみたものの、五分前にも同じことを叫んでいるのだ。ボスモンスターはHPバーを確認することができないため、残りHPはその挙動から推測するしかない。戦闘開始時にはのろのろと動いていた黒巨人が、今は恐慌状態とでも言うべきおお暴れっぷりなので、体力が残り少ないのは確かなはずだが、それすらも希望的観測の域を出ていない。  こういう先の見えない長期戦では、後方でバックアップするプレイヤーはマナポイントが減少していくだけだが、前線で敵の猛攻に晒されるフォワードは実際に精神力、集中力を消耗させていくことになる。通常のボス攻略戦では、最前面に立つプレイヤーはおよそ十分で控えと交替するのがセオリーなので、それを考えればスリーピングナイツの面々の頑張りは驚異的と言える。  しかしさすがに疲労は隠し切れないようで、アスナの呼びかけに、おう! と元気な声で応えたのはユウキだけだった。小柄なインプの少女だけは何十分経っても憔悴の色ひとつ見せず、軽快なステップで巨人の槌と鎖をかいくぐっては右手の剣で的確にダメージを入れていく。  いままで、ユウキの強さを超絶的な反射速度としてとらえていたアスナだが、ここにきてまたひとつ認識を新たにさせられる思いだった。集中を途切れさせることなく剣を振るい続ける意思の強靭さは、これもかつてのキリトに匹敵するかもしれない。  ふと、アスナは、何度目ともしれない回復スペルを詠唱しながら、眼前の光景を遠い記憶に重ね合わせていた。  まえのアインクラッドの、七十何層だったかのボス攻略戦で、キリトも似たような巨人タイプ相手にたった一人で奮闘したものだ。敵の猛攻を避けに避けまくり、両手の剣を機関銃のようなスピードで振り回して、ボスの弱点らしき脇腹へと—— 「あっ……」  アスナは、不意に訪れた電撃的な閃きに、思わず短い声を漏らした。途端、詠唱中だったスペルをファンブルしてしまい、ぼふん! と周囲に黒煙が立ち込める。  しまった、と首を縮めたが、アスナに続いてキャスティングしていたシーエンの魔法が危ないところで間に合った。前方で毒ブレスに包まれていたテッチたちのHPバーが、たちまち安全圏まで回復する。  ちらりと視線を向けてきたシーエンに、アスナはごめん、というように左手を立ててから、早口で言った。 「シーエン、ちょっと思いついたことあるの。三十秒だけヒール任せていい?」 「ええ、大丈夫です。私はまだマナに余裕ありますから」  頷くシーエンに向かってもういちど手を上げてから、アスナは右手の杖を掲げた。大きく息を吸ってから、限界のスピードで新たな呪文の詠唱を開始する。  スペルワードが組み立てられるに従い、アスナの前にきらきらと氷の粒が出現し、それはたちまち凝集して、四つの鋭い氷柱を作り出した。氷のナイフが出来上がると同時に、アスナの視界に青い光の点が表示される。非追尾型攻撃スペル用の照準点だ。  アスナは慎重に左手を動かし、青い光点の位置を微調整して、黒巨人の二つの頭のすぐ下、喉もとへとあわせた。巨人がどすんどすんと前進し、上側の二本の手でハンマーを大きく振り上げたその瞬間—— 「えいっ!!」  アスナは右手の杖をぶんと振った。たちまち、四本の氷柱は青い軌跡を引きながら飛翔し、狙い違わず巨人の二本の首のつけねに命中した。 「グオオォォォォ!!」  途端に黒巨人はどこか悲鳴じみた声をもらし、ハンマー攻撃を中止して、四本の腕を首の前でしっかりと交差させて体を丸めた。そのまま五秒ほど防御姿勢を取ってから、ふたたび腕を振り上げて、戦槌を思い切り石畳に叩きつける。  ずどどーんという大音響とともに床が地震のように揺れ、アスナは転ばないように両足を踏ん張りながら、小さく呟いた。 「やっぱり……」  再び訝しそうに首を傾げるシーエンに、簡単に説明する。 「あの防御行動、ランダムかと思ってたけどそうじゃなかった。首元にウィークポイントが設定されてるんだわ。弱点探してる余裕なかったから、はなっからアテにしてなかったんだけど……」 「じゃあ、そこを攻めれば倒せるんですか?」 「少なくとも、効率は良くなる……と思うけど、ちょっと場所が高いな……」  巨人の身長はおよそ四メートル、首筋を狙おうにも、タルケンの長槍でもぎりぎり届かない。フィールドでならいくらでも飛んで攻撃できるが、迷宮区ではそれができない。 「カウンター覚悟でソードスキルを使うしかないかもですね」  シーエンの言葉に、アスナもあごを引く。飛行不可圏ですこしでも滞空しようと思ったら、突進系のソードスキルを使うか、あるいはジャンプして連撃系の技を繰り出すしかない。当然、使ったあとには硬直時間が待っており、無防備に落下していくところを狙い撃ちにされるのは必至だ。無論、スペルで蘇生を試みることはできるが、成功率は一〇〇%ではなく、また詠唱も気が遠くなるほど長いためにがたがたとパーティー全体が崩壊することにもなりかねない。  しかし——、ユウキなら、一も二もなくやってみようと言うに違いない。そう思いながらシーエンの顔を見ると、華奢な外見とはうらはらに肝っ玉の据わっているウンディーネも、ぐっと力強く首肯した。 「わたし、前に出て作戦を伝えてくる。もう少しだけヒール役お願い」 「任せてください!」  アスナはポーチから残りのポーションのうち二つをつかみ出し、シーエンに渡すと、くるりと踵を返して走りはじめた。  十メートルほどの距離を一瞬で駆け抜け、黒巨人に近づいた途端、真横からうなりを上げて鉄鎖が襲い掛かってきた。慌てて首を縮めて回避するが、肩ぐちを先端の錘がかすめて、たちまちHPが減少する。  それに構わず走りつづけ、ユウキのすぐ後ろに達すると、アスナは叫んだ。 「ユウキ!!」  剣を振りながらくるっと振り向いたユウキは、目を大きく見開いた。 「アスナ! どうしたの?」 「聞いて、あいつには弱点があるの。二本の首のまんなかを狙えば大ダメージを与えられるはずだわ」 「弱点!?」  ユウキは再びくるっと振り向くと、食い入るように巨人の頭を見上げた。途端、遥か上空から大樽のようなハンマーが降ってきて、二人はあわてて飛びのく。続いて発生する震動波を垂直跳びで回避しながら、ユウキは叫んだ。 「高い……ボクじゃ、ジャンプしても届かないよ!」 「ちょうどいい踏み台があるじゃない」  アスナはにっと笑うと、少し離れたところで戸板のような盾を掲げ、鎖の乱舞からノリを守っているテッチに視線を向けた。すぐに、ユウキも納得したかのようににかっと笑い返してくる。  二人は同時にダッシュすると、テッチの後ろ三メートルほどの位置に回りこんだ。ユウキが口に両手をあて、この体のどこから、と思うような大声を出す。 「テッチ! 次にハンマー攻撃がきたらすぐにしゃがんで!!」  巨漢ノームは、振り向くと豆つぶのような目を見開いたが、すぐにこくこくと頷いた。  黒巨人はひとしきり鎖を振り回したあと、大岩のような上半身を反らせて空気を吸い込み、一瞬溜めてから二つの口を大きく開いて、ごばぁぁー! と黒いガスを吐き出した。たちまち周囲は硫黄のような悪臭に包まれ、前面にいる皆のHPがみるみる減少する。  が、ブレス攻撃が終わった瞬間、見事なタイミングで青い光が降り注ぎ、体力を回復させていく。巨人は続けて、上側の腕に握った二本のハンマーを高く振り上げた。  ユウキが腰を落とし、ダッシュの用意をする。アスナはその小さな背中に向けて、早口で言った。 「最後のチャンスよ! がんばれ、ユウキ!」  ユウキは背を向けたまま応えた。 「まかして、姉ちゃん!!」  ねえ……ちゃん?  思わぬ呼び方をされ、アスナがぱちくりと瞬きをしたその時にはもう、少女は猛然と地を蹴っていた。  前方では、巨人が床をぶち抜く勢いで二つのハンマーを叩きつけた。ででーん! と衝撃音が響き渡り、放射状に発生する震動波を、テッチがしゃがみこんでやり過ごす。  直後ユウキも跳んだ。左足をテッチの広い肩に掛け、右足で分厚いヘルメットの天辺を踏みつけて—— 「うりゃああああ!!」  鋭い掛け声とともに、ユウキはまるで見えない翅をはばたかせたかのように、高く飛翔した。一直線に巨人の胸元に迫ると同時に、右手の剣を大きく引き絞り、 「やーっ!!」  再度の気合を迸らせながら、二つの首の接合部目掛けて、凄まじいスピードで突き込んだ。青紫色のエフェクトフラッシュが迸り、円形の部屋中をまばゆく照らし出した。  空中においてソードスキルを発動させた場合、たとえそこが飛行不可圏内であったとしても、技が出終わるまでは使用者が落下することはない。ユウキは黒巨人の正面に滞空したまま、電光のように右手を閃かせつづけた。右上から左下に向かって突きを五発。そのラインと交差する軌道でもう五発。重い音とともに剣先が急所を抉るたび、巨人は四本の腕を捻じ曲げて悲鳴じみた絶叫を上げる。  バツの字を描くように十発の突き技を叩き込んだあと、ユウキは再び体を大きくひねり、右手の剣の刀身に左手をあてがった。  瞬間、刃から放たれた閃光の、あまりの眩しさにアスナは思わず目を細めた。ユウキの黒曜石の剣が、今だけは金剛石に変わったように見えた。白く輝く剣は、ジェット戦闘機じみた衝撃音を響かせながら、バツ字の交差点、巨人の首元の中心に突き刺さると、そのまま刀身の根元まで深く深く貫いた。  巨人が絶叫を止めて凍りついた。アスナも、ジュンやテッチ達も、そして右手をいっぱいに伸ばしたユウキも、時間が停止したかのような静寂のなかで、ぴたりと動くことをやめた。  やがて、埋まり込んだ剣を中心に、巨人の黒光りする肌に蜘蛛の巣のような白い亀裂が発生した。罅割れは、その内部から放たれる白光の圧力に耐えかねるように、ぴしぴしと長さと太さを増していく。それはみるみるうちに巨体の四肢すべてに広がり——  立ち木が裂けるような鋭い音とともに、二つの首の接合部から、黒巨人は真っ二つに断ち割れた。直後、ガラスの像が圧潰するかのように、四メートルの巨体すべてが大小無数の塊となって砕け散った。ほとばしった純白の光が、物理的な圧力をともなって押し寄せ、アスナの髪を激しく揺らした。重低音と高音が入り混じったエフェクトサウンドがドーム中に荒れ狂い、十数秒後、鈴を鳴らすような硬質の音色を高く引きながら薄れ、消えて行った。  円周部からドームの薄闇を照らしていた青いかがり火が、激しく揺れ、一瞬薄れて、なんの変哲もない橙色へと変わった。同時にボス部屋全体が明るい光で満たされ、漂っていた妖気の残滓を追い払った。  気付くと、すべてが終わっていた。 「……はは……やっ……たぁ……」  アスナは掠れた笑いを漏らすと、その場にぺたんとへたり込んだ。顔をめぐらせると、ボスが消滅した場所にポカンとした表情で立ち尽くしていたユウキと、目が合った。  小柄な少女は、数秒間も訝しそうに瞬きを続けていたが、やがてその口もとに薄っすらと微笑みがにじみ出て来た。それはたちまち、いつもの、輝くような満面の笑みへと変化する。  右手の剣を鞘に戻すのももどかしく、ユウキはだっとアスナに駆け寄ってきた。二・五メートルほども手前で、両手をいっぱいに広げて地を蹴り、そのままどすーんとアスナの胸に飛び込んでくる。 「ぐはっ!」  アスナは大げさな悲鳴を上げてみせると、ユウキと一緒に床に倒れ込んだ。そのまま、至近距離で互いの目を覗き込んでから、同時に爆発するように笑い出す。 「あははは……やった、勝った……勝ったよ、アスナ!」 「うん、やったね! あ——……疲れた——!!」  上にユウキを乗っけたまま、手足を大の字に広げてばったりと床に伸びる。周囲では、同じくへたり込んでいた仲間たち五人が、それぞれの格好でガッツポーズをし、歓声を上げていた。  と、アスナは、頭の上のほうからギギギ……と重い音が響いてきたのに気付いた。視線を向けると、さかさまの視界のなかで、入り口の大扉がゆっくりと開いていく。  突然、その扉が左右に激しく叩きつけられた。奥から、無数のプレイヤー達がときの声とともに突入してきた——が、すぐに内部の異変に気付いて立ち止まると、戸惑ったようにきょろきょろと周囲を見回す。  ボス攻略ギルドの面々の先頭に立つ、一際高級な装備にびっちりと身を固めたサラマンダーの大男と、アスナの目が合った。大男の顔に、じわじわと理解と屈辱の色が浮かぶのを、アスナは少々痛快な気分で眺めた。 「へへ……」  にんまりと笑みを浮かべてみせたあと、アスナとユウキは、床に転がったまま同時にVサインを作って、男達に突きつけた。  数十通りの捨て台詞を残して攻略ギルドが引き上げたあと、アスナとスリーピングナイツの面々は、ボスモンスターがドロップした鍵を使って、部屋の奥の扉を開けた。長い螺旋階段をひたすら登り、東屋ふうの小さな建物の床から飛び出すと、そこはもう前人未到の六十八層だった。すぐ近くに見えた主街区まで一息に飛び、中央広場の転移門をユウキがアクティベートしたところで、ボス攻略クエストは全て終了となった。  さっそく、青く光るゲートを使ってロンバールの街まで戻ってきた七人は、広場の片隅で輪になると、あらためてばしんばしんとハイタッチを交わした。 「みんな、おつかれさま! ついに終わったねえー」  笑みとともに言いながら、アスナはそこはかとない寂しさを感じていた。あくまで傭兵である身としては、契約の終了はすなわちひとまずの別れを意味する。  ううん、これから友達になればいい、時間はたっぷりあるのだ——と思い直していると、不意にアスナの肩をぽん、とシーエンが叩いた。見ると、整った顔にはいつになく真剣な色が浮かんでいる。 「いいえ、アスナさん。まだ終わっていません」 「……え?」 「大切なことが残っていますよ。——打ち上げ、しましょう」  がくっと膝から崩れ、もうっ! と拳を振り上げてから、アスナは両手を腰に当てた。 「うん、やろう! どーんと盛大にやろう」  言うと、ジュンがにやっと笑みを浮かべた。 「なんせ予算はたっぷりあるしな! 場所はどうする? どっか大きい街のレストランでも貸し切りにすっか」 「あ……」  アスナはふと思い立つと、両手の指先を組み合わせながら、皆の顔を見回した。 「えっと、そういうことなら……わたしの家にこない? ちっちゃいとこだけど」  それを聞いたユウキが、ぱっと顔を輝かせる。だが、どうしたことか、その笑顔は雪が溶けるようにたちまち消え去ってしまった。そのまま、軽く唇を噛んで俯いてしまう。 「ゆ……ユウキ? どうしたの?」  戸惑いながらアスナが声をかけても、いつも元気だった少女は顔を上げようとしなかった。代弁するかのように、シーエンが口を開いた。 「……あの……ごめんなさい、アスナさん。気を悪くしないで頂きたいんですけど……私たちは……」  だが、言葉は最後まで続かなかった。ずっと下を向いていたユウキが、突然鋭く息を吸い込むと、右手でシーエンの手をぐっと掴んだのだ。  ユウキはぎゅっと唇を引き結び、ゆがめた眉のしたで大きな瞳に切々とした光を浮かべて、じっとシーエンを見つめた。何かを言いかけるように二、三度唇が小さく動いたが、音が発せられることはなかった。  だが、シーエンにはユウキが言いたいことがわかったようだった。口もとに、ごくごくかすかな微笑を浮かべると、右手でユウキの頭をぽんと撫で、アスナに向き直った。 「アスナさん、ありがとう。お気持ちに甘えて、お邪魔させて頂きますね」  いまの一幕の意味が理解できず、アスナは首を傾げた。しかしすぐに、その場の空気を吹き散らすようにノリがいつもの豪快な声で言った。 「そうと決まったら、まず酒だな! 樽で買おう、樽で!」 「ここには、ノリさんの好きな芋焼酎は無いですよ」  眼鏡を押し上げながらぼそぼそとタルケンが口を挟むと、たちまち厳しい突っ込みが背中に飛んだ。 「なんだとこら! いつアタシが芋焼酎好きなんて言ったか! アタシが好きなのは泡盛なんだぞ!」 「色気の無さじゃ一緒じゃんかよ」  ジュンの更なる突っ込みに、皆の笑いが続く。一緒に笑いながら、アスナはユウキに再び視線を向けた。ユウキの顔にもようやく笑みが戻りつつあったが、その瞳に揺れるどこか切なそうな色は、まだ完全には消えていなかった。  まず、連れ立って現時点では最大であるアルゲードの街のマーケットに赴き、大量の酒と食料を買い込んでから、一行は二十二層に転移した。  小さな村の広場から飛び立ち、深い雪に埋もれた森を眼下に見ながら南を目指す。氷の張った湖を一息に越えると、木立の中にぽかりと開けた空き地と、そこに立つ小さなログハウスが見えた。 「あっ、あそこ!?」  ユウキのはしゃぎ声に、こくこく頷く。 「そうだよー……あっ」  アスナが答えるや否や、ユウキは両手を広げると、一気に加速した。そのまま、まっすぐ家の前庭目指して落ちていく。直後、ぼふーんと盛大な雪煙が上がり、近くの森から驚いた鳥の群が飛び立った。 「……まったく」  シーエンと顔を見合わせて笑ってから、アスナも翅を一打ちして着陸体勢に入った。しばし滑空してからすとんと庭に降り立つと、待ちきれないように足踏みしていたユウキに引っ張られるようにしてドアに向かう。  家に、仲間たちの誰かがいたらさっそく紹介しようと思っていたのだが、残念ながら部屋は無人だった。 「へえー、ふうーん、ここがアスナのおうちかあ!」  ユウキは嬉しそうに、床から生えたテーブルや、赤々と火が燃えさかる暖炉、壁に掛けられた剣などと見てまわっている。残り六人はテーブルの周りに集まると、それぞれのアイテム欄から買い込んできたご馳走を取り出した。たちまち謎の酒肴が山のように積み重なる。  ノリの希望どおり大樽で仕入れたワインの栓を抜き、黄金色の液体をなみなみと注いだグラスが並ぶと、それでもう宴席の準備は完了した。キッチンでアスナの調味料コレクションに見入っていたユウキをジュンが掴まえてリビングに引っ張ってきて、七人そろってテーブルにつく。  乾杯の音頭をアスナが辞退したので、ユウキが握ったグラスを掲げて、満面の笑顔で叫んだ。 「それでは、ボス攻略成功を祝して……かんぱーい!」  乾杯! の唱和と、かちんかちんとグラスがぶつかり合う音が続き、全員が一気にワインを干す。あとは、たちまち秩序無きどんちゃん騒ぎへと移行した。  ジュンとテッチが先刻倒したボスの話、ノリとタルケンがALOに存在する酒の話で盛り上がっている隣で、アスナはユウキとシーエンから、今までコンバートしたVRMMO世界の話を聞いていた。 「間違いなく最悪だったのはねえ、アメリカの『インセクサイト』っていうやつだよー」  ユウキは両手で体を抱くような素振りをしながら、顔をしかめた。 「ああ……あれはねえ」  シーエンも苦笑いしながら首を縮める。 「へえ……どんなやつ?」 「虫! 虫ばっか! モンスターが虫なのはともかく、自分も虫なんだよぉー。それでも、ボクはまだ二足歩行のアリンコになったんだけど、シーエンなんか……」 「だめ、いわないでー」 「でっかいイモムシでさ! 口から、い、糸をぴゅーって……」  そこで我慢しきれないように、ユウキはけたけたと笑った。シーエンの、憤慨したような幻滅したような顔に、アスナも一緒になって笑う。 「いいなあー、みんなでほんとに色んなところに行ってるんだねえ」 「アスナは? VRMMO歴、かなり長そうだけど」 「わたしは、えーと、ここだけなんだ。この家を買うお金を貯めるのに、随分時間が掛かっちゃって……」 「そっかー」  ユウキは顔を上げると、もう一度、目を細めてリビングを見渡した。 「でも、ほんと、すっごく居心地いいよ、このお家。なんだか……昔を思い出すって感じ」 「そうですね。ここにいると、本当にほっとします」  シーエンもこっくりと深く頷く。  と、不意に、その小さな口がアッというふうに開かれた。 「ど、どうしたの、シーエン?」 「しまった、忘れてました! お金と言えば……私達、アスナさんにお手伝いをお願いするときに、ボスから出たものを全部お渡しするって約束してましたよね。どうしましょう、こんなに色々買い込んじゃって」 「うわ、ボクもすっかり忘れてた!」  申し訳無さそうに肩をすぼめる二人に、笑いながら手を振ってから、アスナは口を開いた。 「いいよ、いいよ。少しだけ、何かもらえれば。あ、ううん——やっぱり……」  そこで口をつぐみ、すうっと息を吸う。  ボス攻略戦の前から、ぼんやりと考えていたことを言葉にするチャンスだ、そう思って、アスナは真剣な顔でユウキを見た。 「やっぱり、何もいらない。その代わり、お願いがあるんだ」 「え……?」 「あのね……契約はこれで終わりなんだけど……でも、わたし、ユウキともっと話したい。訊きたいことが、いっぱいあるの」  どうすれば、ユウキのように強くなれるのか——それを、教えてほしい。胸の奥でつぶやきながら、アスナは続けた。 「わたしを、スリーピングナイツに入れてくれないかな」 「…………」  ユウキは、すぐには答えず、きゅっと唇を噛んだ。見開かれた大きな目に、再びもどかしそうな光がたゆたう。  いつのまにか、シーエンも、そして他の四人も、話を止めてじっとユウキとアスナを見ていた。訪れた静寂のなか、ユウキは長いあいだ無言でじっとアスナを見つめていた。やがて動いた唇から、そっと発せられた声は、いつに無く弱々しく揺れていた。 「あのね……あのね、アスナ。ボクたち……スリーピングナイツは、もうすぐ……たぶん、春までに解散しちゃうんだ。それからは、みんな、なかなかゲームには入れないと思うから……」 「うん、わかってる。それまででいいの。わたし、ユウキと……みんなと、友達になりたい。それくらいの時間はあるよね……?」  アスナは身を乗り出し、じっとユウキの紫色の瞳を覗き込んだ。だが、初めてのことだったが、ユウキはすぐに視線をそらしてしまった。そのまま、小さく左右に首を振る。 「ごめん……ごめんね、アスナ。ほんとに……ごめん」  何度もごめん、とつぶやくユウキの声はいつになく辛そうで、アスナはそれ以上言い募ることができなかった。 「そっか……。ううん、わたしの方こそ、無理なお願いしてごめんね、ユウキ」 「あの……アスナさん、私……私たちは……」  傍らで、シーエンがユウキの言葉を補おうとするかのように言いかけたが、珍しく彼女も言うべき言葉が見つからないようだった。  アスナは、揃ってつらそうな顔をしている皆をぐるりと見渡すと、場をとりなすようにぱたんと手をたたき、意識して元気な声を出した。 「ごめんねー、急に変なこと言って、困らせちゃって。景気づけに、アレ、見にいこう!」 「アレ……?」  首を傾げるシーエンと、俯いたままのユウキの肩を同時にぽんと叩く。 「肝心なことを忘れてるね! そろそろ更新が反映されるころだよ、アレ……『剣士の碑』!」 「おっ、そうか!」  ジュンが大声とともに立ち上がった。 「いこういこう! 写真撮ろうぜ!!」 「ね、いこ?」  アスナがもう一度言うと、ようやくユウキは顔を上げ、小さく笑った。  まだどこか元気のないユウキの手を引き、転移門から飛び出すと、アスナは『はじまりの街』の中央広場を見渡した。 「ふわー、やっぱここは広いなあ! さ、こっちだよ、みんな!」  巨大な王宮に背を向け、花壇の間を縫うように早足で歩くと、すぐに前方に四角い『黒鉄宮』の姿が見えた。アインクラッドでも最も有名な観光スポットのひとつなので、初心者からベテランまで、多くのプレイヤーが出入りしている。  高いメインゲートをくぐり、建物の中に踏み込むと、ひんやりとした空気が肌を撫でる。異常に高い天井に、プレイヤーのブーツが鉄の床を叩く音が無数に反響している。  かんかんと高い足音を立てて、アスナとユウキたちは奥の大広間に向かった。二つの内門を抜けると、一際静謐な感じの空間が広がり、その中央に巨大なモノリスが鎮座していた。 「あれか!」  せっかちらしいジュンとノリが、アスナとユウキの両側を抜けて走っていく。数秒遅れで剣士の碑の足元まで達すると、アスナも顔を上げ、びっしりと並ぶ文字列の末尾を探した。 「あ……あった」  不意に、ユウキが呟いた。アスナと繋いだ手に、きゅっと力がこもった。同時に、アスナも見つけた。黒光りする鉄碑のほぼ中央、『Braves of 67th floor』の表示のあとに、日本語で七人の名前が深々と刻み込まれていた。 「あった……ボクたちの、名前だ……」  どこか呆然としたようにユウキが呟く。その瞳がかすかに潤んでいるのを見て、アスナも胸が詰まるような気がした。 「おーい、写真撮るぞ!」  ジュンの声が後ろから響いて、アスナはユウキの肩を掴むと、くるんと半回転させた。 「ほら、笑わないと」  アスナの言葉に、ようやくユウキもにこっと笑顔を見せる。六人が碑の前に並ぶと、ジュンは握っていた記録クリスタルのポップアップウインドウを操作し、タイマーを設定して手を離した。クリスタルはそのまま空中に留まり、上部にカウントダウン表示が瞬く。  駆け寄ってきたジュンがユウキとテッチの間に収まり、全員が笑顔を浮かべた瞬間、ぱしゃっと音がしてクリスタルが光った。 「おっけー!」  再びジュンが駆け戻っていく。アスナとユウキは、もう一度振り返って鉄碑を見上げた。 「やったね、ユウキ」  アスナは手を離すと、ユウキの頭をそっと撫でた。ユウキはこくんと頷いたあとは、長いあいだずっと七人の名前を見つめていたが、やがてかすかな声で呟いた。 「うん……やった、ついにやったよ、姉ちゃん」 「ふふふ」  それを聞いて、アスナはつい笑みをこぼした。 「ユウキ、また言ってる」 「え……?」  何のことだかわからない、というふうにユウキはアスナの顔を見た。 「わたしのこと、姉ちゃん、だって。ボス部屋でも言ってたよー。ううん、わたしは嬉しいけど……——!?」  何気なく言いかけた言葉を、アスナは途中で飲み込んだ。  ユウキが、両目を限界まで見開いて、口もとを手で覆っていた。その紫色の大きな目に、みるみるうちに大きな雫が盛り上がり、こぼれると、頬を伝って次々に滴った。 「ゆ……ユウキ……!?」  息を飲んで手を伸ばそうとしたアスナから、ユウキは二歩、三歩と後ずさった。その唇が動き、掠れた声が流れた。 「アスナ……ぼ、ボク……」  不意にユウキは俯くと、溢れる涙をぐいっと拭って、左手を振った。出現したウインドウを、震える指で叩く。たちまち、その小さな体を、白い光の柱が包み——  それを最後に、“絶剣”ユウキは、アインクラッドから姿を消したのだった。  明日奈は手の中の紙片に目を落とすと、そこに手書きで記された名前と、眼前に横たわる巨大な建築物の壁面に立体的に浮き出た名前が同一であることを確かめた。  横浜市都筑区。緑の多い丘の間に抱かれるように、その建物はあった。背が低いかわりに両翼がたっぷりと広がった設計や、周囲の丘陵ののどかな佇まいを見ていると、とてもここが首都圏とは思えないが、明日奈の家がある世田谷からは東急線を使って三十分もかからなかった。  建物はまだ新しく、冬の低い日差しを浴びて茶色いタイルの壁面をきらきらと光らせている。自分が長いあいだ眠っていたあの場所によく似ているな、と思いながら、明日奈はメモをポケットに仕舞った。 「ここにいるの、ユウキ……?」  小さな声で呟く。会いたい、と思う反面、ここにあの少女が居なければいい、とも考えてしまう。  わずかに逡巡したあと、明日奈は制服の上に着たコートの襟をかき合わせて、正面エントランス目指して足早に歩きはじめた。 “絶剣”ユウキがアインクラッドから消えてから、すでに三日が経過していた。最後の瞬間、剣士の碑のまえで彼女が見せた涙は、まだ明日奈のまぶたに焼き付いている。このまま忘れてしまうことなど、到底できそうになかった。どうしてももう一度会って、話をしたかった。しかし、送ったメッセージは、すべて送信相手がログインしていません、というリプライを返してきたし、開封された様子もなかった。  スリーピングナイツの仲間たちなら、ユウキの居場所を知っているはず、とも思ったのだが、二日前、溜まり場になっていたロンバールの酒場でひとりアスナを迎えたシーエンは、睫毛を伏せて首を振った。 「私たちも、ユウキと連絡が取れないのです。ALOだけでなく、他のVR世界にもログインしている様子はありませんし、現実世界の彼女について知っていることもほとんどありません。それに……」  シーエンはそこで言葉を切り、どこか気遣わしそうな視線でアスナを見た。 「アスナさん。たぶん、ユウキは再会を望んでいないと思います。誰でもない、あなたのために」  アスナは愕然として言葉を失った。数秒たってから、どうにか声を絞り出した。 「な……なんで? ううん……何となく、ユウキやシーエンたちが、わたしと必要以上に関わらないように線を引いてるのはわかってた。わたしのことが迷惑だっていうなら、もう追いかけないよ。でも……わたしのため、って言われても納得できない」 「迷惑なんて……」  いつも静謐な態度を崩さないシーエンが、珍しく表情を歪め、激しく首を左右に振った。 「私たちは、あなたと出会えたことを本当に嬉しく思っています。この世界で、最後にとても素敵な思い出が作れたのはアスナさんのお陰です。どんなに感謝してもし足りません。でも……どうか、お願いですから、これで私達のことは忘れてほしいのです」  そこで言葉を切り、左手を振ってウインドウを操作した。アスナの前に、小さなトレードウインドウが現われた。 「予定には少し早いのですが、スリーピング・ナイツは解散することになると思います。アスナさんへのお礼は、ここにまとめてあります。この間のボスからドロップしたものと、私達の全ての所持アイテムを……」 「い……いらない。受け取れないよ」  アスナは指先を叩きつけるようにウインドウをキャンセルし、一歩シーエンに歩み寄った。 「本当に、これでお別れなの? わたし……ユウキや、シーエンや、みんなのことが好き。ギルドは解散しても、友達としてずっと仲良くしていけると思ってた。でも、そう思ってたのはわたしだけなの……?」  これまでのアスナなら、絶対に口にしないような言葉だった。しかし、ユウキたちと行動を共にしたたった数日のうちに、アスナは少しずつ自分が変わりつつあるのを感じていた。だからこそ、みんなと別れるのは嫌だった。  しかし、シーエンは顔を伏せ、頭を振るだけだった。 「ごめんなさい……ごめんなさい。でも、こうしたほうがいいんです。ここで、別れたほうが……」  そして彼女もウインドウのボタンを押し、ログアウトした。シーエンや、ジュンやノリたち他のメンバーも、それきりALOにログインしてくることは無かった。  たった三日間の付き合いだ。それで友達になったつもりだったアスナが間違っているのかもしれなかった。しかし、スリーピングナイツの面々は、アスナの心の奥深くに拭いきれない印象を残していった。このまま忘れることなど、絶対にできそうになかった。  シーエンと会った翌日には、三学期が始まったのだが、久々にリアル世界でキリト——和人やリズベット達と会っても、明日奈の心はどこか沈んだままだった。気がつくと、瞼の裏、鼓膜の奥に、ユウキの笑顔を甦らせているのだった。姉ちゃん、とユウキは明日奈のことを呼んだ。それに気付いて、彼女は涙を流した。その理由をどうしても知りたかった。  そして昨日。昼休みに、明日奈は『屋上で待ってる』という和人からのメールを受け取った。  冷たい風が吹き渡っていくコンクリート剥き出しの屋上で、空気循環用の太いパイプに寄りかかって、和人は明日奈を待っていた。近づくアスナを、じっと——シーエンと同じような——気遣わしげな視線で見つめたあと、和人は唐突に言った。 「どうしても、絶剣に会いたいのか」 「……うん」  こくりと、深く明日奈は頷いた。 「会わないほうがいい、と言われたんだろう? それでも?」 「うん、それでも。わたし、どうしてももういちど会って話したい。話さないとだめなの」 「そうか」  短く答えて、和人は明日奈に小さな紙片を差し出した。 「え……?」 「あくまで可能性だ。それも、五〇%くらいの……でも、俺は、絶剣はそこにいると思う」 「ど……どうして、キリト君にわかったの……?」  メモを受け取りながら、明日奈は呆気に取られて訊ねた。和人はすっと視線を空に向け、呟いた。 「そこが、日本で唯一、『メディキュボイド』の臨床試験をしている場所だからだ」 「メディ……キュボイド?」  聞きなれない、不思議な単語を繰り返しながら、明日奈は紙片を開いた。  そこには、横浜港北総合病院、という名前と地番が小さな文字で書かれていた。  綺麗に磨かれたガラスの二重自動ドアをくぐり、たっぷりと採光されたエントランスに踏み込むと、どこか懐かしい消毒薬の匂いがかすかに漂った。  小さな子供を抱いた母親や、車椅子の老人がゆっくりと行き交う静かな空間を横切って、明日奈は面会受付カウンターへ向かった。  窓口横に備えられた用紙に住所氏名を書き込み、面会を希望する相手の名前を書く欄で、手が止まる。明日奈が知っているのはユウキという名前だけだし、それすらも本名かどうかはわからない。和人からは、たとえそこに彼女がいてもそれを確認できるかどうか、面会できるかどうかはわからない、と言われていたが、ここまで来て諦めるわけにはいかなかった。意を決して、用紙を持って窓口へと向かう。  カウンターの向こうで端末を操作していた白いユニフォームの女性看護師は、明日奈が近づく気配に顔を上げた。 「面会ですね?」  笑顔とともに発せられた質問に、ぎこちなく頷く。一部空欄の申請用紙を差し出しながら、明日奈は言った。 「ええと……面会したいんですが、相手の名前がわからないんです」 「はい?」  訝しそうに眉を寄せる看護師に向かって、懸命に言葉を探す。 「たぶん十五歳前後の女の子で、もしかしたら名前は『ユウキ』かもしれないんですが、違うかもしれません」 「ここには沢山の入院患者さんがいらっしゃいますから、それだけではわかりませんよ」 「ええと……ここで試験中の『メディキュボイド』を使ってる方だと思うんですが」 「ですから、患者さんのプライバシーに関しては……」  その時、カウンターの奥にいたもうひとりの看護師がすっと顔を上げると、じっと明日奈の顔を見た。次いで、明日奈の相手をしていた看護師に向かって、何事か耳打ちをする。  最初の看護師は、ぱちぱちと瞬きし、あらためて明日奈を見上げてから先ほどとは微妙に異なる口調で言った。 「失礼ですがあなた、お名前は?」 「あ、ええと、結城、明日奈と言います」  答えながら、申請用紙を滑らせるように差し出す。看護師は用紙を受け取ると目を落とし、それから奥の同僚に渡した。 「何か身分証を拝見できますか?」 「は、はい」  慌ててコートの内ポケットから財布を取り出し、学生証を抜いて提示する。看護師はカード上の写真と明日奈の顔を仔細に見比べたあと、軽く頷き、しばらくお待ちくださいと言って傍らの受話器を取り上げた。  内線でどこかに掛けたらしく、二、三小声でやり取りしてから、明日奈に向き直る。 「第二内科の倉橋先生がお会いになります。正面のエレベータで四階に上がってから、右手に進んで、受付にこれを出してください」  差し出されたトレイから、学生証ともう一枚銀色のカードを取り上げ、明日奈はぺこりと頭を下げた。  四階受付前のベンチで更に十五分近く待たされてから、明日奈は足早に近寄ってくる白衣の姿に気付いた。 「やあ、ごめんなさい、申し訳ない。すみません、お待たせして」  妙な詫び方をしながら会釈したのは、小柄ですこし肉付きのいい男性医師だった。おそらく三十代前半だろうか、つやつやと広い額の上で髪をきっちり七三に分け、縁の太い眼鏡を掛けている。  明日奈は慌てて立ち上がると、深く頭を下げた。 「と、とんでもない。こちらこそ急にお邪魔してしまって。あの、わたしならいくらでも待てますけれど」 「いえいえ、今日の午後は当番じゃないですから、ちょうどよかった。ええと、結城明日奈さん、ですね?」  やや垂れぎみの目をにこにこと細めながら、男性医師は軽く首をかたむけた。 「はい。結城です」 「僕は倉橋といいます。紺野くんの主治医をしております。よく訪ねてきてくれました」 「こんの……さん?」 「ああ、そうでした。紺野ユウキくんです。ユウキは、草木の木に綿、季節の季と書くんですがね。木綿季くんは、ここのところ毎日、明日奈さんの話ばかりしていますよ。あ、すみませんつい、木綿季くんがそう呼ぶもので」 「いえ、明日奈でいいです」  微笑みながら答えると、倉橋医師も照れたように笑い、右手でエレベータのほうを指し示した。 「立ち話もなんですので、二階のラウンジに行きましょう」  案内された、広々とした待合スペースの奥まった席に、明日奈と医師は向かい合って座った。大きなガラス窓からは、病院の広大な敷地と、周囲の緑を遠く望むことができる。周囲に人影は少なく、遠くから伝わってくるホワイトノイズだけが空気をかすかに揺らしている。  明日奈は、心の中で溢れかえるような疑問の数々を、どこから口にしたものか迷っていた。が、先に倉橋医師が沈黙を破った。 「明日奈さんは、木綿季くんとVRワールドで知り合ったんですよね? 彼女が、この病院のことを話したんですか?」 「あ、いいえ……そういう訳ではないんですが……」 「ほう、それでよくここが分かりましたね。いやね、木綿季くんが、もしかしたら結城明日奈さんという人が面会にくるかもしれないから、受付にその旨伝えておいてくれと言うものだから、病院のことを教えたのかと驚いたらそうじゃないと言う。じゃあこの場所がわかるわけないよ、と僕は答えたんですが、さっき受付から連絡がきたときは、いや驚きましたよ」 「あの……木綿季さんは、わたしのことを話したんですか……?」  なら嫌われたわけじゃないのかな、という安堵で胸のおくがほっと温かくなるのを感じながら明日奈は訊いた。 「それはもう。ここ四、五日は、僕との面談では明日奈さんの話ばかりですよ。ただね、木綿季くん、あなたの話をしたあとは決まって大泣きしてね。自分のことでは決して弱音を吐かない子なんだが」 「えっ……な、なんで……」 「もっと仲良くなりたい、でもなれない、会いたい、けどもう会えないと言うんです。その気持ちは……わからなくもないんだが……」  そこで初めて、倉橋医師はわずかに沈痛な顔を見せた。明日奈は深く一呼吸してから、急き込むように尋ねた。 「木綿季さんも、彼女の仲間たちも、中……VRワールドで私にそう言いました。何故なんです!? 何故もう会えないんですか!?」  メモに病院の名前を見たときから、じわじわと膨らみつつある危惧のかたまりを飲み込みながら明日奈が身を乗り出すと、倉橋医師はしばらく無言のまま、テーブルの上で組み合わせた両手に視線を落としていたが、やがて静かに答えた。 「それでは、まず、メディキュボイドの話からはじめましょうか。明日奈さんは、勿論アミュスフィアのユーザーなんですよね?」 「え……ええ、そうです」  青年医師は、ひとつ頷くと顔を上げ、言った。 「僕はね、NERDLES技術がそもそもアミューズメント用途に開発されたことが残念でならないのです」 「え……?」 「あのテクノロジーは、最初から医療目的に研究されるべきでした。そうすれば、現状はあと一年、いや二年分は進んでいたはずです」  思わぬ話の成り行きに戸惑う明日奈に向かって、医師は指を立ててみせた。 「考えてください。アミュスフィアのもたらす環境が、どれほど医療の現場で有効に機能するか。例えば、視覚や聴覚に障碍をもつ人たちにとっては、あの機械はまさに福音なんですよ。先天的に脳に機能障害がある場合は残念ながら除外されますが、眼球から視神経に異常があっても、アミュスフィアなら直接脳に映像を送り込めるわけです。聴覚の場合も同様です。光や音をまったく知らずに育った人たちでも、今やあの機械を使うことで、ほんとうの風景というものに触れられるようになったのです」  熱っぽく語る倉橋医師のことばに、明日奈はこくりと頷いた。アミュスフィアがそのような分野で広く活用されるようになったのは、そう最近のことではない。いずれヘッドギアが更に小型化され、専用のレンズと組み合わせれば、視覚障碍者も晴眼者とまったく同じように生活を送れるようになると言われている。 「また、有用なのは信号伝達機能だけではありません。アミュスフィアには、体感覚キャンセル機能もありますよね」  医師は指先で自分のうなじの部分を叩いた。 「ここに電磁パルスを送ることで、一時的に神経を麻痺させるわけです。つまり、全身麻酔と同じ効果がある。例えば手術時にアミュスフィアを用いることで、ある程度の危険がある麻酔薬の使用を回避できると考えられています」  いつの間にか医師の話に引き込まれていた明日奈は、頷いてからふと気付き、首を横に振った。 「ええ……いえ、それは無理じゃないですか? アミュスフィアでインタラプトできる感覚レベルはごく低いものに限られています。体にメスを入れるような激痛を消去することは、アミュスフィアには、いえ、初代機——ナーヴギアにも出来ないと思いますし……たとえ延髄でキャンセルしても、体の神経は生きているわけですから、脊髄反射は残るのでは……?」 「そう、そうです」  倉橋医師は、意を得たりというように何度も首を動かした。 「まったくその通りです。それにアミュスフィアは電磁パルスの出力も弱いし、処理速度も遅いので、応答性に多少の問題があります。VR世界に長時間ダイブするならそれでもいいのですが、レンズと組み合わせてリアルタイムに現実環境と同期させることは難しい。そこで現在、国レベルで開発が急がれているのが、世界初の医療用NERDLES機器——メディキュボイドなのです」 「メディキュ……ボイド」 「まだ仮称ですがね。要は、アミュスフィアの出力を強化し、パルス発生素子を数倍に増やし、処理速度を引き上げ、また脳から脊髄全体をカバーできるようベッドと一体化したものです。見た目はただの白い箱なのでキュボイド……直方体と呼ばれています。これが実用化され、多くの病院に配備されれば、医療は劇的に変わりますよ。麻酔はほとんどの手術で不要となりますし、また現在ロックトイン状態と診断されている患者さんともコミュニケートできるようになるかもしれません」 「ロックトイン……?」 「ああ——閉じ込め症候群、と呼ばれる状態ですね。脳の、思考する部分は正常なのだが、体を制御する部分に障害があり、意思を表すことができない状態です。メディキュボイドなら脳の深部までリンクすることができますからね、たとえ体が動かなくても、VRワールドを利用して社会復帰できる可能性すらあるのです」 「なるほど……つまり、ただVRゲームを遊ぶためのアミュスフィアよりも、ずっと本当の意味での、夢の機械、なんですね」  頷きながら何気なく明日奈はそう口にした。しかし、それを聞いた途端、まさに夢について語っていた風の倉橋医師は、急に現実に引き戻されたかのように口を閉じ、わずかに表情を暗くした。眼鏡を外し、目蓋を閉じて、深く長く嘆息する。  やがて、小さく首を左右に振りながら、医師はどこか悲しそうに微笑んだ。 「ええ、まさに夢の機械です。しかし……機械には、当然限界がある。メディキュボイドが、最も期待されている分野のひとつ……それは、ターミナル・ケアなのです」 「ターミナル・ケア……」  聞きなれない英単語を鸚鵡返しに口にする。 「漢字では、終末期医療、と書きます」  その言葉の響きに、明日奈は冷水を浴びせられたような思いを味わった。絶句し、目を見開く明日奈に向かって、眼鏡を掛けなおした倉橋医師はどこかいたわるような眼差しを向け、言った。 「あなたは、後で、ここで話を止めておけばよかったと思うかもしれません。その選択をしても、誰もあなたを責めません。木綿季くんも、彼女の仲間たちも、本当にあなたのことを思いやっているのですよ」  だが、明日奈は迷わなかった。どんな現実を告げられても、それを正面から受け止めようと思ったし、またそうしなければいけないという思いもあった。明日奈は顔を上げると、はっきりした声で言った。 「いえ……続けてください。お願いいします。わたしはそのためにここに来たんですから」 「そうですか」  倉橋医師は再び微笑むと、大きく頷いた。 「木綿季くんからは、明日奈さんが望めば、彼女に関する全てを伝えてほしいと言われています。木綿季くんの病室は中央棟の六階にあります。少し遠いので、歩きながら話しましょう」  ラウンジを出て、エレベーターを目指す医師の後について歩きながら、明日奈は頭のなかで何度も同じ言葉を繰り返していた。  終末期。終末。その言葉がなにを指すのかは、単純なまでに明白なような気もしたし、まさかそんなはずはない、「そのこと」を示すのにそんな直裁な単語を用いるわけがないと打ち消す気持ちもあった。  ただひとつはっきりしているのは、自分が、これから明らかにされる真実を、正面からすべて受け止めなくてはならないということだった。ユウキは明日奈にそれができると信じたからこそ、彼女の現実へと踏み込むことを許してくれたのだ。  中央棟二階のロビーに三機並んだエレベーターの、ドアのあいだに設置されたパネルの上部に医師が手をかざすと、直接触れていないのに上向きの三角印が青く灯った。すぐにポーンと穏やかなチャイムが鳴り、右端の扉がスライドした。  白い光が溢れる箱に乗り込み、再び医師が内部のパネルに指を近づけるとドアが閉まった。作動音も、Gの変化もほとんど感じさせないままに、エレベーターが上昇を始める。 「ウインドウ・ピリオド、という言葉を聞いたことはありますか?」  不意に倉橋医師に尋ねられ、明日奈は瞬きして記憶のインデックスを探った。 「たしか……保健の授業で教わったと思います。ウイルスの……感染に関することですか?」 「そのとおりです。たとえば人間が何らかのウイルスに感染したと疑われる場合、主に血液を検査するわけですよね。検査の方法としては、血液中のウイルスに対する抗体を調べる抗原抗体検査、そしてより感度の高い、ウイルス自体のDNA・RNAを増幅して調べるNAT検査があるわけですが、そのNAT検査を用いても、感染直後から十日前後はウイルスを検出できないのです。その期間を、ウインドウ・ピリオドと呼びます」  医師はそこで言葉を切った。直後、かすかな減速感が訪れ、チャイムとともにドアが開いた。  最上階となる六階は、部外者の立ち入りは制限されているらしく、降りてすぐ正面にものものしいゲートが設置されていた。医師が胸からネームプレートを外してゲート脇のセンサーに近づけると、小さな電子音がして金属の遮断バーが降りた。手振りで促され、明日奈は足早にゲートをくぐった。  下層と違って、このフロアには窓は無いようだった。つるつるした白いパネルに覆われた通路がまっすぐに延び、前方でT字に分岐している。  再び明日奈の前に立って歩き始めた倉橋医師は、通路を左に曲がった。柔らかな白光に満たされた無機質な道がどこまでも続いている。白衣の看護師が数名行き交っているだけで、外界の騒音はまったく届いてこない。 「——そのウインドウ・ピリオドの存在ゆえに、必然的に起こってしまうことがあります」  医師はふたたび静かな声で話しはじめた。 「それは、献血によって集められる、輸血用血液製剤の汚染です。無論、確率は低い。一度の輸血によって何らかのウイルスに感染してしまう確率は、何十万分の一でしかありません。しかし、その数字をゼロにすることは、現代の科学では不可能なのです」  かすかな嘆息。そこに含まれる、ごくごくわずかな憤りと無力感を、明日奈は感じる。 「木綿季くんは、二〇〇一年の五月生まれです。難産で、帝王切開が行われました。その時——カルテを確認できなかったのですが——何らかのアクシデントにより大量の出血があり、緊急輸血が施されたのです。用いられた血液は、ウイルスに汚染されていました」 「…………」 「今となっては、確たることはわからないのですが、おそらく木綿季くんが感染したのは出産時かその直後。お父さんはその一ヶ月以内でしょう。ウイルス感染が判明したのは九月、お母さんが受けた輸血後の確認血液検査によってです。その時点では……もう、家族全員が……」  再び深く息をついて、医師は足を止めた。通路の右側の壁にスライドドアがあり、かたわらの壁に金属パネルが設置されている。そこに嵌めこまれているプレートには、「第一特殊計測機器室」、といかめしい文字が並んでいた。  医師はもう一度ネームカードを外すと、パネル下部のスリットに通した。電子音が響き、ぷしゅっという音とともにドアが開く。  胸の奥をぎゅうぎゅうと絞るような痛みを感じながら、明日奈は倉橋医師に続いてドアをくぐった。内部は、奥行きのある妙に細長い部屋だった。  正面の壁に、今通ったのと同じようなドアがあり、右側にはいくつかのモニタを備えたコンソールが設置されている。左の壁は一面横長の大きな窓だが、ガラスは黒く染まって、内部を見ることはできない。 「この先はエア・コントロールされた無菌室なので入ることはできません。了承してください」  そう言うと、医師は黒い窓に近寄り、下部のパネルを操作した。かすかな震動音とともに、窓の色が急速に薄れ、たちまち透明なガラスに変化して、その向こうをさらけ出した。  小さな部屋だった。いや、面積自体はかなり広い。一見して小さいと思ってしまったのは、部屋中を様々な機械が埋めつくしているからだ。背の高いもの、低いもの、シンプルな四角形、複雑な形のものが混在して、だから、部屋の中央にあるジェルベッドに気付くのには少し時間がかかった。  明日奈は限界までガラスに顔をちかづけて、じっとベッドを凝視した。  青いジェルに半ば沈むように、小柄な姿が横たわっていた。胸元まで白いシーツが掛けられており、そこから覗く裸の肩は痛々しいほどに痩せている。喉元や両腕には様々なチューブが繋がり、周囲の機械類へと続いている。  ベッドの主の顔を、直接見ることはできなかった。頭部のほとんどを飲み込むように、ベッドと一体化した白い直方体が覆いかぶさっているからだ。見えるのはほとんど色のない薄い唇と、尖った顎だけだった。直方体の、こちら側の側面にはモニタパネルが埋め込まれ、さまざまな色の表示が躍っていた。モニタ上部に、簡素なロゴで「Medicuboid」と書かれているのが見えた。 「ユウキ……」  明日奈は掠れた声で囁いた。ついにここまで、現実のユウキの元まで来た。しかし、最後の二メートルを、絶対に超えられない分厚いガラスの壁が隔てている。  医師に背を向けたまま、明日奈は言葉をしぼり出すように尋ねた。 「先生……ユウキの病気は、なんなんですか……?」  答えは短く、しかし途方も無い重さを持っていた。 「後天性免疫不全症候群……AIDSです」  あるいはそうなのかもしれないと、この大きな病院を見たときから考えていた。ユウキは何れかの、重い病に冒されているのかもしれない、と。しかしやはり医師の口から具体的な病名を聞くと、息が詰まるのを抑えることはできなかった。ガラス越しに、明日奈は横たわるユウキを見つめ、全身をかたく凍りつかせた。  これは本当に現実なのか、と思った。あの、誰よりも強く、どんなときも元気なユウキが、いくつもの機械の谷間に埋もれるように横たわっている光景を、事実として認識することを理性も感情も拒否していた。  なにも知らなかった。わたしは何も知らず、また知ろうともしなかった大馬鹿だ、と叫ぶ声がした。あのとき、アスナの眼前から消える直前にユウキが見せた涙の意味——それは——それは…… 「しかし、現在ではエイズという病気は、世間で思われているほど恐ろしいものではないのですよ」  立ち尽くすアスナの背に、あくまでも穏やかな倉橋医師の声が投げかけられた。 「たとえHIVに感染しても、早期に治療を始めることができれば、十年、二十年という長いスパンでエイズの発症を抑えることも可能です。薬をきちんと飲み、健康管理を徹底することで、感染以前とほとんど変わらない生活を送ることだって出来るのです」  きい、という小さな音が、医師がコンソール前の椅子に腰掛けたことを告げた。言葉は続く。 「しかし、新生児がHIVに感染した場合の五年生存率が、成人と較べて大きく低下することも事実です。木綿季くんのお母様は、家族全員の感染が判明したあと、皆で死を選ぶことも考えたそうです。しかし、お母様は幼少のころからのカソリック信徒でいらした。信仰の力と、もちろんお父様の力もあって最初の危機を乗り越え、病気と闘いつづける道を選んだのです」 「闘い……つづける……」 「ええ。木綿季くんは、産まれたその瞬間から生きるためにウイルスと闘ってきた。もっとも危険な時期を脱してからは、体は小さくても元気に育って、小学校にも入学したのです。——沢山の薬を定期的に飲みつづけるというのは、子供には辛いものです。逆転写酵素阻害剤は、副作用も強いですしね。それでも、木綿季くんは、いつかは病気が治ると信じてがんばりつづけた。学校もほとんど休まず、成績もずっと学年のトップクラスだったそうです。友達も沢山いて、私もビデオを何本も見せてもらいましたが、いつでも輝くような笑顔でしたよ……」  わずかな間。医師が小さくため息を漏らすのを、明日奈は聞く。 「——木綿季くんがHIVキャリアであることは、学校には伏せられていました。それが普通なのです。学校や企業の健康診断では、血液のHIV検査を行うことは禁じられています。しかし……彼女が四年生に上がってすぐの頃です。経路は不明なのですが、木綿季くんがキャリアであるということが、同学年の保護者の一部にリークされたのです。噂はすぐに広まりました。……HIV感染を理由とするいかなる差別も、法によって禁じられていますが、残念ながらこの社会は、善なる理念によってのみ動いているわけではない……。彼女の通学に反対する申し立てや、あるいは電話や手紙による有形無形の嫌がらせが始まりました。ご両親もずいぶん頑張られたようです。しかし、結果として一家は転居することを余儀なくされ、木綿季くんも転校することになってしまったのです」 「…………」  明日奈は声を挟むこともできない。ただひたすら、背筋を固くして、告げられる言葉に耳を傾けることしかできない。 「木綿季くんは、涙ひとつ見せずに、新しい学校にも毎日通いつづけたそうです。ですが……残酷なものですね。ちょうどその頃から、免疫力低下の指標となるCD4というリンパ球の数値が急激な減少を始めました。それはつまり……エイズの発症、ということです。私は、そのきっかけになったのは、彼女の心を痛めつけた前の学校の保護者や教師たちの言葉だと今も信じています」  若い医師の声は、あくまで穏やかに抑制されたものだった。ただ、ほんのわずか響いた鋭い呼吸音だけが、彼の心情を表していた。 「——免疫力が低下することによって、通常では容易に撃退できるはずのウイルスや細菌に冒されてしまう。それを日和見感染と言います。木綿季くんも、ニューモシスティス肺炎という感染症を発してこの病院に入院することになりました。それが三年と半年前のことです。病院でも、木綿季くんはいつも元気でしたよ。にこにこと笑顔を絶やさないで、絶対に病気なんかには負けないといつも言っていました。辛い検査にも、泣き言ひとつ漏らさなかった。ですがね……」  言葉を切った医師が、体を動かす気配。 「細菌やウイルスは、病院の中、そして何より患者自身の体内、いたるところに存在します。一度エイズを発症したら、あとはもう日和見感染への場当たり的な対処療法を続けていくしかないのです。カリニ肺炎に続いて、木綿季くんは食道カンジタ症に感染しました。——ちょうどその頃、世間はあのナーヴギアによる事件で揺れに揺れていました。NERDLES技術の封印論まで浮上するなかで、国と一部のメーカーによって研究開発が続けられていた医療用ナーヴギア……メディキュボイドの試験機が開発され、臨床試験のためにこの病院に搬入されました。しかし、試験と言っても、元になったのがあのナーヴギアですし、また数倍の密度に引き上げられた電子パルスが、長期的に脳にどのような影響を与えるのか誰にもわからなかった。それを承知した上で実験台になろうという被試験者はなかなか見つかりませんでした。それを知った私は……木綿季くんとご家族にある提案をしました……」  続く言葉を待ちながら、明日奈はベッドの上のユウキと、その頭部をほとんど飲み込んでいる白い直方体をじっと見つめた。  頭の芯が、痺れたように冷たかった。混乱した意識の片隅で、突きつけられた現実から目をそむけるように、漠然と考える。  メディキュボイドは、開発された時期的に、アミュスフィアではなくナーヴギアの発展形なのだろう。明日奈はもうすっかりアミュスフィアという機械に慣れているが、それでも時々、もう手許には無いナーヴギアが作り出した仮想世界のクリアさを懐かしく思い出すことがある。SAO事件の反省を活かし、三重四重のセーフティ機能が設けられているアミュスフィアではあるが、それゆえに生成する世界のリアリティという点では初代機に一歩劣るのは否めない。  ナーヴギアの数倍というパルス発生素子を装備し、全身の体感覚を完璧にキャンセルすることが可能で、さらにアミュスフィアを遥かに上回る処理速度のCPUを持つというメディキュボイド——。とするなら、アルヴヘイムでユウキが見せた圧倒的なまでの強さは、マシンの性能に由来するものなのだろうか?  一瞬そう考えてから、明日奈はすぐ内心でかぶりを振った。ユウキの剣技の冴えは、機械のスペックなどという段階を遥か上回るレベルに達している。戦闘センスだけ見ても、おそらくキリトと同等かそれ以上なのは間違いない。  明日奈が理解しているところでは、キリトの強さというのは、丸二年に及んだSAO内での虜囚生活において、誰よりも長時間最前線で闘いつづけた経験に由来するものだ。ならば、ユウキは、メディキュボイドの作り出す世界の中でどれほどの時間を過ごしたのだろうか——。 「ご覧のとおり、メディキュボイド試験機は非常に精密でデリケートな機械です」  しばし沈黙していた倉橋医師が、ふたたび話しはじめた。 「長期間安定したテストを行うために、クリーンルームに設置されることになりました。つまり、空気中の塵や埃のほかに、細菌やウイルスなども排除された環境下、ということです。ということは、もし被試験者としてクリーンルームに入れば、日和見感染のリスクを大幅に低下させることができる。私は、木綿季くんとご家族に、そう提案したのです」 「…………」 「今でも、それが木綿季くんにとって良いことだったのかどうか、迷うこともあります。エイズの治療においては、QoL、クオリティ・オブ・ライフというものが重視されます。生活の質、という意味ですね。治療中の生活の質をいかに高め、充実したものにするか、という考えです。その観点に立てば、被試験者としてのQoLは決して満たされたものとは言えない。クリーンルームから出ることも、誰かと直接触れ合うことも出来ないのですからね。——提案に、ご両親も木綿季くんもとても悩まれたようでした。しかし、バーチャル・ワールドという未知の世界への憧れが、木綿季くんの背を押したのでしょうね……。彼女は被試験者となることを承諾し、この部屋に入りました。以来ずっと、木綿季くんはメディキュボイドの中で暮らしています」 「ずっと……というのは……?」 「文字どおりです。木綿季くんが現実世界に帰ってくることはほとんどありません。というより、今はもう帰ってこられないのです。ターミナル・ケアでは苦痛の緩和のためにモルヒネなどを用いますが、彼女の場合はそれをメディキュボイドの感覚キャンセル機能に置き換えていますから……。一日に数時間行われるデータ採取実験のほかは、ずっと色々なバーチャル・ワールドを旅しているのですよ。私との面談も、もちろん向こうで行っています」 「つまり……二十四時間ダイブしたまま、ということですか……? それを……」 「三年間です」  医師の簡潔な答えに、明日奈は言葉を失った。  いままで、世界中のアミュスフィアユーザーのなかで、最も長時間のダイブ経験を持つのは自分を含む旧SAOプレイヤーだと思っていた。だが、それは間違いだった。目の前のベッドに横たわる痩せた少女こそが、世界でもっとも純粋な仮想世界の旅人なのだ。そしてそれこそが、ユウキの強さの根源なのだ。  ——君は、完全にこの世界の住人なんだな。と、キリトはユウキに問うたそうだ。彼はきっと、短い戦闘の中で、自分と近しいものをユウキに感じたのだろう。  明日奈は、心の内に、敬虔さにも似た感情が広がるのを意識した。自分よりも遥かな高みに立つ剣士の前で、こうべを垂れ、剣を捧げるような気持ちで、目を閉じ、わずかに頭を下げた。  しばし沈黙したあと、明日奈は振り返り、倉橋医師を見た。 「ありがとうございます、ユウキに会わせてくれて。——ユウキは、ここにいれば大丈夫なんですね? ずっと、向こう側で旅を続けられるんですね……?」  だが、明日奈の問いに、医師は即答しなかった。コンソールの前の椅子に腰掛け、両手を膝の上で組み合わせて、穏やかな眼差しでじっと明日奈を見た。 「——たとえ無菌室に入っていても、もとより身体に内在する細菌やウイルスを排除することはできません。免疫系の機能低下に伴って、それらは確実に勢力を増していきます。木綿季くんは現在、サイトメガロウイルス症と非定型抗酸菌症を発症しており、視力のほとんどを喪失しています。さらに、HIVそのものを原因とする脳症が進行しています。おそらくもう、自力で体を動かすことはほぼできないでしょう」 「…………」 「HIV感染から十四年……エイズ発症から三年半。木綿季くんの病状は末期です。彼女も、清明な意識でそれを認識している。木綿季くんが、あなたの前から姿を消そうとした理由はもうお判りのことと思います。」 「そんな……そんな」  明日奈は眼を見開き、小さく首を振った。だが、告げられた事実を押し退けることは出来なかった。  ユウキは、明日奈と近づくことをいつも躊躇っていた。それは真実、明日奈を思いやってのことだった。やがて確実に訪れる別れに明日奈が苦しまないようにと、ユウキはそれだけを考えていたのだ。  しかし明日奈は何も知らず、気付かず、ユウキを苦しめていた。黒鉄宮でログアウトする前にユウキが見せた涙を、明日奈は鋭い痛みとともに思い出してた。  その時、明日奈はあることに気付き、はっと顔を上げて医師を見た。 「あの……先生、もしかして、ユウキにはお姉さんがいるのでは……?」  尋ねると、医師は一瞬驚いたように眉を上げ、しばし迷ったようだったが、ゆっくりと頷いた。 「——木綿季くん本人のことではないので話さなかったのですが……。ええ、そうです。木綿季くんは双子だったのです。すべての端緒となった帝切が行われたのも、それが原因です」  記憶をたどるように、視線をすっと上向け、微笑む。 「お姉さんは、藍子さんという名前でした。やはりこの病院に入院していました。あまり似ている双子ではなかったですね……。元気で活発な木綿季くんを、いつもにこにこと静かに見守っていましたよ。そう言えば……顔も、雰囲気も、どことなくあなたに似ていたかもしれない……」  なぜ過去形で話すのですか、と胸のうちで呟きながら、明日奈は医師を見詰めた。心の声を聴いたように、医師はもういちど、そっと頷いた。 「木綿季くんのご両親は二年前……お姉さんは一年前に、亡くなりました」  失うこと、の意味は知っているはずだった。  あの世界で、明日奈は人の命が消える瞬間を繰り返し目の当たりにしてきた。自らぎりぎりの距離でその淵を覗き込んだことも幾度もある。結果、理解した——つもりでいた。時がくれば人は死ぬのだということを。どんなに足掻いても、どうにもならない現実があるのだということを。  しかし今、たった数日間交流したにすぎないユウキという少女の過去と現在を知り、明日奈はその重みに耐えかねて、目の前の厚いガラスに体を預けた。現実、という言葉の意味が、曖昧に溶けて流れていってしまうようだった。俯き、額を冷たい平面に押し付ける。  自分はもうじゅうぶんに戦った。だから、今のささやかな幸せに固執して何が悪いのか、と心のどこかで思っていた。変化を恐れ、軋轢に怯え、後すさって口をつぐむことにあれこれ言い訳をしてきた。  でも、ユウキは生まれてからずっと戦ってきたのだ。全てを奪い去ろうとするあまりにも過酷な現実とただひたすら戦いつづけ、そして近づきつつある終わりの時を知ってなお、あれほどに輝く笑顔を浮かべてみせたのだ。  明日奈はかたく瞼を閉じた。心の奥で、どこか遥かな異世界を旅しているのだろうユウキに向かって呼びかける。  ——もう一度、もう一度だけ会いたい。会って、今度こそ本当の話をしたい。ぶつからなければ、伝わらないことだってある、とユウキは言った。弱い自分を覆うように身にまとったものをすべて剥ぎ取り、ユウキともう一度言葉を交わすことが叶わないなら、何のためにわたしたちは出会ったのか。  ついに、瞼のふちに熱くにじむものを感じた。明日奈は右手をガラスに押し当て、極限まで平滑なその表面に何かの感触を探すように、指先に力を込めた。  その時だった。どこからともなく、柔らかな声が降り注いだ。 『泣かないで、アスナ』  明日奈は弾かれたように勢い良く顔を上げた。睫毛の水滴を飛ばしながら眼を見開き、ベッドの上のユウキを凝視する。小さなシルエットは、先ほどと何も変わることなく横たわっていた。顔を隠す白いマシンにも変化はない。しかし、こちらに向いたその側面に設けられたインジケータのひとつが、不規則に青く点滅しているのに明日奈は気付いた。モニタパネルの表示も数秒前とは異なり、小さな文字で『patient talking』という一文が浮かんでいるのが見えた。 「ユウキ……?」  明日奈は口のなかで囁いてから、もう一度、今度は震えながらもはっきりとした声で言った。 「ユウキ? そこに、いるの?」  すぐにいらえがあった。どうやら、隔壁上部に設けられたスピーカから声は聞こえてくるようだった。 『うん。レンズ越しだけど、見えてるよ、明日奈。すごい……向こう側と、ほんとにそっくりなんだね。ありがと……来てくれて』 「……ユウキ……わたし……わたし」  言わなくちゃ、と思うほどに言葉は出てこない。例えようもないもどかしさに、胸元をぎゅっと押さえる。  だが、唇を開くまえに、再度頭上から声がした。 『先生、アスナに隣の部屋を使わせてあげてください』 「え……」  戸惑いつつ振り向くと、倉橋医師はやや厳しい顔で何事か考えていたようだったが、すぐに穏やかな笑みを取り戻し、深く頷いた。 「いいでしょう。——あのドアの奥に、私がいつも面談に使っているシートがあります。カギは中から掛けられますが、時間は二十分ほどにしておいてください。色々手続きを省略しているもので」 「は……はい」  慌てて頷き返し、明日奈はもう一度メディキュボイド側面のインジケータ部を見やった。 『アプリ起動ランチャーにALOが入ってるから、ログインしたら、ボクたちが初めて会った場所に来て』 「うん……わかった。待ってて、すぐいくから」  しっかりした声で答え、明日奈は身を翻した。モニタルームの奥の壁に備えられたドアまで数歩で達し、センサーに手をかざす。しゅっとスライドして開くや否や体を滑り込ませる。  その向こうは、モニタルームの半分ほどの狭い部屋だった。高級そうなレザーのリクライニングシートが二脚並んで据えられ、双方のヘッドレスト部分に、見慣れたリング型ヘッドギアが掛けられていた。  振り向いてドアをロックするのももどかしく、バッグを床に放り投げると、明日奈は近いほうのシートに体を横たえた。肘掛け前部のボタンで背もたれを適当な角度に調節し、アミュスフィアを取り上げると頭に装着する。大きく一回息を吸い、電源を入れると、眼前に白光が広がって、明日奈の意識を現実世界から切り離していった。  森の家のベッドルームで眼を開けたアスナは、感覚が馴致するのも待たずに、文字通り飛び起きた。  翅を鳴らして宙を滑り、床に一度も足を着かずに窓から外へと飛び出す。アルヴヘイムは早朝の時刻だったようで、深い森は一面白い霧に包まれていた。くるりとターンして急上昇し、霧のカーテンを突き破って木々の上へ。両手をぴたりと体側に揃え、フロア中央目指して猛然とダッシュする。  三分足らずで主街区上空に達すると、アスナは広場の真ん中に青く光る転移門目掛けて一直線に降下した。周囲に数人いたプレイヤー達が目を丸くして見上げるなか、反転、急制動、速度が相殺された瞬間にすぽんとゲートに飛び込む。 「転移! セルムブルグ!」  叫ぶと同時に青白い光は滝のように流れ、アスナを高く押し上げ始めた。  転移は数秒間で完了し、すぽんと放り出されたそこはもう城砦都市セルムブルグの中央広場だった。激しく石畳を蹴って離陸すると、今度は都市の北にある小島を目指す。朝靄が流れる湖水に影を落としながら、全速で飛行する。  すぐに、向かう先に一際大きな樹のシルエットが姿を現した。あの根元で“絶剣”ことユウキが連日の辻デュエルを催していたことなど、もう遥か昔のことのようだ。当時は大勢のギャラリーで賑わった小島は、今はもうひっそりと静まり返っていた。  アスナは徐々にスピードを落としながら、大樹の幹を回り込むように着陸体勢に入った。白い霧が濃密に立ち込めているせいで、地表の様子はよく見えない。  露を含んだ草をかすかに鳴らし、地面に降り立つと、アスナは周囲を見渡した。日の出前で光量が少ないせいもあり、ほんの数メートル先すらも見通せない。焦燥感に駆られながら、早足に樹の周囲を回る。  ちょうど半分周り、幹の東側に出た、その時だった。ようやく外周部から差し込んだ曙光が、一瞬朝靄を吹き払った。白いカーテンの切れ目に、アスナは捜し求めた姿を見出した。  ユウキはアスナに背を向けて、長い濃紺の髪と、矢車草の色のロングスカートを風に揺らしていた。息を詰めて見守るなか、闇妖精族の少女はふわっと振り向き、アメジスト色の瞳でまっすぐにアスナを見た。色の薄い唇に、溶け去る寸前の雪つぶのような、儚げな笑みが浮かんだ。 「——なんでかな、アスナがボクを見つけてくれるような、そんな予感がしてたんだよ。何も教えられなかったんだから、そんなわけないのにね」  囁くように言い、ユウキはもう一度微笑んだ。 「でも、アスナは来てくれた。ボクの予感が当たるの、けっこう珍しいんだ。嬉しかったよ……すごく」  たった数日会わなかっただけで、ユウキの佇まいにある種の透明感が増しているような気がして、アスナは胸をぎゅっと締め付けるような痛みを感じた。眼前の少女が幻であるのを恐れるかのように、一歩、また一歩、ゆっくりと歩み寄る。  伸ばした指先が、ユウキの左肩に触れた。瞬間、そこに感じた温もりを確かめたいという衝動を抑えられず、アスナは両腕の中に、小柄なその体をそっと包みこんだ。  ユウキは驚いた様子も見せず、若草が風にたなびくように、アスナの肩口に頭を預けた。アーマー越しに触れ合う体から、電子パルスに媒介されるデジタルデータ以上の、心を震わせるような暖かさが伝わって、アスナはゆっくりと息を吐きながら眼を閉じた。 「……姉ちゃんに抱っこしてもらったときとおんなじ匂いがする。お日様の匂い……」  全身をアスナにもたれさせながら、ユウキが囁いた。 「藍子……さん? お姉さんも、VRMMOを……?」 「うん。あの病院は、一般病室でもアミュスフィアが使えたから。姉ちゃんは、スリーピングナイツの初代リーダーだったんだよ。結成してしばらくは、『アスカエンパイア』ってゲームに居たんだけどね……。ボクなんかより、ずーっと強かったんだ……」  ユウキの額がぎゅっと肩に押し当てられるのを感じて、アスナは右手を上げ、艶やかな髪をそっと撫でた。一瞬の体の強張りをすぐに解き、ユウキは言葉を続ける。 「スリーピングナイツのメンバーは、最初は九人いたんだよ。でも、もう、姉ちゃんを入れて三人いなくなっちゃった……。だからね、シーエンたちと話し合って、決めたんだ。次のひとりの時には、ギルドを解散しよう、って。その前に、みんなで素敵な思い出を作ろう……姉ちゃんたちに、胸を張ってお土産に出来るような、すごい冒険をしよう、って」 「…………」 「ボクたちが出会ったのは、『セリーンガーデン』っていう、医療系ネットワークの中にあるヴァーチャル・ホスピスなんだ。病気はそれぞれでも、大きな意味では同じ境遇の人たち同士、VR世界で話し合ったり、遊んだりして、最期の時を豊かに過ごそう、っていう目的で作られた場所……」  病院を訪れ、倉橋医師の話を聞いたときから、アスナは心のどこかであるいは、と思っていた。ユウキを含むスリーピングナイツのメンバーに共通する、強さ、朗らかさ、そして静けさ。その理由は、皆が同じ場所に立っているからではないのかと。  しかし、予期していたつもりでも、ユウキの言葉は途方もない重みをともなってアスナの胸の底に降り積もった。シーエンや、ジュン、テッチたちの明るい笑顔が、次々と脳裏を過ぎった。 「アスナ、ごめんね。本当のことを言えなくて。春にスリーピングナイツが解散する、っていうのは、みんなが忙しくなってゲームを引退するからじゃないんだ。良くてあと三ヶ月、って告知されてるメンバーが二人いるからなんだよ。だから……だから、ボクたちは、どうしてもこのすてきな世界で、最後の思い出を作りたかった。あの大きなモニュメントに、ボクたちがここにいたよ、っていう証を残したかった」  再びユウキの声が震えた。アスナはただ、両腕に一層力を込めることしかできなかった。 「でも、どうしてもうまくいかなくて……一人だけ、手伝ってくれる人を探そう、って相談したんだ。反対意見もあったよ。もしボクたちのことを知られたら、その人に迷惑をかけちゃう、嫌な思いをさせちゃうから、って。……その通りになっちゃったね。ごめんね……ごめんね、アスナ。もし出来るなら……今からでも、ボクたちのことは忘れて……」 「出来ないよ」  短く答え、アスナはユウキの頭に頬を摺り寄せた。 「だって、迷惑なんてこと、これっぽっちもないもん。嫌な思いなんてしてない。わたし、ユウキたちと出会えて、ユウキたちの手伝いが出来て、凄く嬉しいよ。今でもまだ……スリーピングナイツに入れてほしいって、そう思ってる」 「……ああ……」  ユウキの吐息も、華奢な体も、一瞬、深く震えた。 「ボク……この世界に来られて、アスナと出会えて、本当に嬉しい……。今の言葉だけで、じゅうぶん、じゅうぶんだよ。これでもう……何もかも、満足だよ……」 「…………」  アスナはユウキの両肩に手をかけると、そっと体を離した。濡れたように輝く紫色の瞳を、間近からじっと覗き込む。 「まだ……まだ、してないこと、一杯あるでしょう? アルヴヘイムにだって、行ってない場所沢山あるだろうし……他のVRワールドも含めたら、この世界は無限に広がってる。だから、満足なんて、言わないでよ……」  言葉を探しながら懸命に語りかけるが、ユウキはどこか遠くを見るように眼差しを煙らせ、微笑むだけだった。 「この三年間で……ボクたち、色んな世界で、色んな冒険をしたよ。その最後の一ページは、アスナと一緒に作った思い出にしたいんだ」 「でも……あるでしょう、まだ……したいこと、行きたい場所……」  ユウキの言葉に頷いたら、その瞬間に眼の前の少女が朝靄の向こうに消えていってしまいそうで、アスナは必死に口を動かした。すると、ユウキはふっと視線の焦点を、遥か彼方からアスナの顔に合わせ、ボス攻略中に何度か見せたようないたずらっぽい笑みを浮かべた。 「そうだね……ボクね、学校に行ってみたいな」 「が……学校?」 「仮想世界の学校にはたまに行くんだけどね、なんだか、静かで、綺麗で、お行儀良すぎてさ。ずーっと前に通ってたみたいな、本物の学校にもう一度行ってみたいな」  もう一度くるっと瞳を瞬かせて笑ってから、済まなそうに首を縮める。 「ごめんね、無理言って。アスナの気持ちはすっごく嬉しい。でもね、ほんとに満足なんだよ、ボク……」 「——行けるかも」 「……え?」  ユウキはぱちくりと目をしばたかせ、アスナの顔をまじまじと見た。記憶のフタを懸命にこじ開けようとしながら、アスナはもう一度言った。 「行けるかもしれないよ……学校」  翌一月十二日、午後十二時五十分、校舎三階北端。  昼休みの喧騒がかすかに届く電算機室で、明日奈は背筋を伸ばして椅子に腰掛けていた。  ブレザータイプの制服の右肩には、細いハーネスで固定された、直径七センチほどの半球ドーム状の機械が載っている。  基部は黒いメタル素材だが、ドーム部分は透明なアクリル製で、その内部に収められたレンズ機構が見て取れる。基部からは二本のケーブルが伸び、一本は明日奈の上着のポケットに収められた携帯端末に繋がり、もう一本は目の前の机に鎮座した小型のパソコンへと接続されている。  パソコンの前では、桐ヶ谷和人と、彼と同じくハードウェア制御コースを受講している二人の生徒が頭を寄せ合い、先刻からあれこれと呪文めいた言葉で意見を交換していた。 「だからさ、これじゃジャイロが敏感すぎるんだって。視線追随性を優先しようと思ったら、ここんとこのパラメータにもうすこし遊びがないと……」 「でもそれじゃあ、急な挙動があったときにラグるだろ」 「そのへんは最適化プログラムの学習効果に期待するしかねえよ」 「ねえキリトくん、まだー? 昼休み終わっちゃうよー」  三十分以上に渡って姿勢固定を強制されている明日奈が、焦れながら声を出すと、和人もう〜んと唸りながら顔を上げた。 「とりあえず初期設定はOKとしとこう。えーと、ユウキさん、聞こえてます?」  明日奈ではなくドーム装置に向かって和人が呼びかける。すると、すぐに機械に備えられたスピーカーから、まごうことなき“絶剣”ユウキの元気な声が応えた。 『はーい、よく聞こえてるよー』 「よし、じゃあ、これからレンズのキャリブレーションを取りますんで、視界がクリアになったところで声を出してください」 『はい、了解』  明日奈の肩に乗っている半球形のメカは、通称『視聴覚双方向通信プローブ』と言うもので、和人たちの班が今年度の頭からずっと試行錯誤しているテーマだった。  簡単に言えば、アミュスフィアとネットワークを通して、現実世界の遠隔地と視覚、聴覚のやり取りをしようという機械だ。プローブ内部のレンズとマイクに収集されたデータは、明日奈の携帯を介してネットに流され、横浜港北総合病院のメディキュボイドを経由して仮想空間内のユウキに届くという仕組みである。レンズは半球内を自由に回転し、ユウキの視線の動きと同期して映像を得ることができる。ユウキは今、自分の体が十分の一ほどに小さくなり、アスナの肩に座っていると感じているはずだ。  以前からこの研究テーマに対する愚痴を散々聞かされていた明日奈は、ユウキが学校に行きたいと言ったとき、咄嗟に思い出したのだった。  ういいん、とごく微かな音を立ててレンズが焦点を動かしていき、ユウキの「そこ」という声と同時に止まった。 「よし、これで終わりだ。一応スタビライザーは組み込んであるけど、急激な動きは避けてくれよ。あんまり大きな声も出さないこと。ささやくくらいで充分伝わるからな」 「りょーかい」  あれこれ注意事項をまくしたてる和人に背筋を大きく伸ばしながら返事をし、アスナはそっと立ち上がった。さっそく、肩のプローブに向かって小声で話かける。 「ごめんねーユウキ、先に学校の中案内しようと思ったけど、昼休みがもう終わっちゃうのよ」  すぐに、小型スピーカーからユウキの声が返ってきた。 『いいよ、授業見学するのもとっても楽しみ!』 「オッケー、じゃあまず、次の授業の先生に挨拶にいこう」  突貫でプローブの設定をやらされて、やや疲れた表情の和人たち三人にひらっと手を振り、明日奈は電算機室を出た。  廊下を歩き、階段を降り、連絡橋を渡るあいだも、ユウキは何かを見つけるたびにわあっと歓声を上げていたが、『職員室』というプレートのついたドアの前に来ると、急に静かになった。 「……どうしたの?」 『えーと……ボク、昔から苦手だったんだよね、職員室……』 「ふふふ、大丈夫。この学校は先生っぽくない先生ばっかりだから」  笑いを交えながら囁いて、明日奈は勢いよくドアを開けた。 「失礼しまーす!」 『し、失礼しまぁす』  大小ふたつの挨拶と同時に中に入ると、すたすたと机の列を横切っていく。  五時限目の現代国語を受け持つ教師は、一度都立中学の教頭を定年まで勤め上げ、この実験的教育施設に乞われて再就職したという人物だ。すでに六十台後半ながら、学校の各所に取り入れられているネットワークデバイスを器用に操り、理知的な物腰もあって明日奈は好感を持っている。  そういう人物なので、恐らく拒否反応はあるまいと思いつつも、多少緊張しながら明日奈は事情を説明した。見事な白髪白髭の教師は、大きな湯呑みを片手に耳を傾けていたが、話が終わるとひとつ頷いて言った。 「うん、構わんよ。ええと、君、名前は何と言ったかね?」 『あ、はい……ユウキ——紺野木綿季です』  実際にプローブから即座に返答があると、さすがに教師は少々驚いたようだったが、すぐに口もとを綻ばせた。 「コンノくん、よかったらこれからも授業を受けに来たまえ。今日から芥川の『トロッコ』をやるんでね、あれは最後まで行かんとつまらんから」 『は……はい、ありがとうございます!』  ユウキに続いて明日奈も礼を言ったところで予鈴が鳴った。慌ててもういちどぺこりと頭を下げ、職員室から出た直後、二人同時にふうーっと息をつく。  ちらりと視線を交わして笑いあうと、明日奈は足早に教室へと向かった。  自分の席に座ったとたん、肩の上の謎の機械について周囲の同級生たちから質問攻めにあったりもしたが、ユウキが入院中であることを説明し、実際にユウキが喋ると皆すぐに仕組みを理解して、次々と自己紹介を始めた。それが一段落したところで本鈴が鳴り、教師が前のドアから姿を現した。  日直の号令で礼を終え——プローブの中でもレンズがういん、ういんと上下した——教壇の脇に進み出た老教師は、髭を一撫でするといつもと何ら変わらぬ様子で授業を始めた。 「えー、それでは、今日から教科書九八ページ、芥川龍之介の『トロッコ』をやります。これは芥川が三十歳の時の作品で——」  教師の概説が続くあいだ、明日奈は薄いタブレット型端末を持ち上げてテキストの該当個所を表示させ、ユウキにも見えるように体の前に持ち上げていた。が、直後の教師の台詞に、思わずそれを取り落としそうになった。 「——では、最初から読んでもらいましょう。紺野木綿季くん、お願いできるかな?」 「は!?」 『は、はいっ』  明日奈とユウキは同時に素っ頓狂な声を上げた。教室中が一瞬ざわつく。 「無理かね?」  尋ねる教師に、明日奈が何かを答える前に、ユウキが大きな声で叫んだ。 『よ、読めます!』  プローブのスピーカーには充分な出力のアンプが内臓されているようで、その声は教室の隅まで楽に届く大きさだった。明日奈は慌てて立ち上がると、両手でタブレット端末をレンズの前にかざした。首を右に傾け、囁く。 「ユウキ……よ、読める?」 『もちろん。これでもボク、読書家なんだよ!』  即答すると、ひとつ間を取ってから、ユウキは元気よくテキストを朗読しはじめた。 『……小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは……』  テキストを保持したまま、明日奈はそっと目を閉じ、抑揚豊かに文章を読み上げるユウキの声に意識を集中した。  心のなかのスクリーンには、明日奈の隣の席に立つ、制服に身を包んだユウキの姿がはっきりと見えた。いつか必ずこの光景は現実になると、明日奈はその瞬間確信した。医学は年々、長足の進歩を遂げている。きっとごくごく近い未来には、HIVという悪魔を根絶する薬品が開発され、ユウキが現実世界へと帰還する日がくるに違いない。その時には、今度こそ本当に手と手をつないで、学校や街を案内しよう。帰り道にファーストフード店で買い食いして、公園に寄り道して、他愛ないお喋りをしよう。  明日奈は、ユウキに気付かれないように、そっと左手で目尻を拭った。ユウキは情感たっぷりに、いつまでも前世紀の名文を読みつづけ、教師もなかなかそれを止めようとしなかった。昼下がりの校内はしんと静まり返り、まるで全校の生徒が朗読に耳を傾けているかのようだった。  そのまま六時間目の授業も一緒に受けたあと、明日奈は約束どおり学校中を案内して回った。クラスの生徒たちが十人あまりも一緒についてきて、我先にとユウキに話し掛け続けたのが予定外ではあったが。  ようやく二人だけに戻って、中庭のベンチに腰掛けたときには、すでに空はオレンジ色に染まりつつあった。 『アスナ……今日はほんとにありがとう。すごく楽しかった……ボク、今日のこと、ぜったい忘れない』  不意にユウキが真剣な調子で言い、明日奈は反射的に明るい声で答えた。 「何言ってるの。先生も、毎日来てもいいって言ったじゃない。明日の現国は三時間目だからね、遅刻しちゃだめだよ! それよりさ……もっと、他に見たいものとか、ない? 校長室以外ならどこでもいいよ」  ユウキはふふ、と笑ったあと、しばし沈黙した。やがて、おずおずという様子で声を発する。 『あのね……一箇所、行ってほしいところがあるんだ』 「どこ?」 『その、学校の外でも、大丈夫?』 「え……』  明日奈は思わず口をつぐんだ。一瞬考え込むが、プローブのバッテリーはまだ充分に保つし、携帯端末がネットに接続できる場所なら、移動の制限は無いはずだ。 「うん、大丈夫だよ。携帯のアンテナがある場所ならどこでも!」 『ほんと!? あのね……ちょっと遠いんだけど……横浜の、保土ヶ谷区、月見台ってところ……』  学校のある調布から、京王線、東横線、相鉄線と乗りついで、横浜市保土ヶ谷区へと向かった。  さすがに電車の中では時折ひそひそと囁くだけに留めたが、それ以外の路上では、明日奈は周囲の目を気にすることなく肩の双方向通信プローブと話しつづけた。ユウキが入院している三年のあいだに、街の風情もそれなりに変わっているようで、彼女が興味を持ったものにはみな近くまで寄っては解説を加えた。  そんなことをしていたものだから、星川駅で電車を降りたときにはもう、ロータリー中央に立つ大時計の針は五時半を回っていた。  濃い朱から紫に変わりつつある空を振り仰ぎ、明日奈は大きく息を吸った。すぐ近くに、木々の多く残る丘陵が広がっているせいか、冷たい空気の味も東京とはずいぶん違うような気がする。 「綺麗な街だね、ユウキ。空がすごく広いよ」  明るい調子で語りかけたが、ユウキは済まなそうな声で返事をしてきた。 『うん……。ごめんね、アスナ。ボクのわがままのせいで、こんな遅くまで……。お家のほうは、大丈夫?』 「へーきへーき! 遅くなるのなんていつものことだもん」  反射的にそう答えるが、実際のところ、明日奈が夕食の刻限に遅れたことはほとんどなく、またその場合、母親の機嫌は大いに損なわれる。しかし今は、帰ってからいくら叱られようとも一向にかまわない気分だった。ユウキが望めば、プローブのバッテリーが続くかぎり、どこまでも遠くまでいくつもりだった。 「ちょっと、メールだけさせてね」  何気ない声でそう言うと、明日奈は携帯端末を取り出した。プローブとの接続は保持したまま、メーラーを立ち上げて、自宅のホームコンピュータ宛に帰りが遅れる旨のメッセージを飛ばす。恐らく母親からは、刻限無視を難詰するメール、次いで直接通話がかかってくるに違いないが、端末をネットに繋ぎっぱなしにしておけば留守番サービスに転送されるはずだ。 「これでOK、っと。さ、ユウキ、行きたいところって、どこ?」 『えっとね……駅前を左に曲がって、二つ目の信号を右に……』 「ん、わかった」  ひとつ頷いて、明日奈は歩き出した。駅前の小さな商店街を、ユウキのナビゲーションに従って通り抜けていく。  ユウキは、パン屋や魚屋、郵便局や神社の前を通るたびに、懐かしそうに一言、二言呟いた。やがて住宅地に入っても、大きな犬のいる家や、立派な枝ぶりの楠などに目を留めては、嘆声を上げる。  だから明日奈は、ユウキが何も言わなくても、この街がかつて彼女の暮らしたところなのだと察することができた。そして、二人の向かう先に待つものも、また——。 『……その先を曲がったところの、白い家の前で止まって……』  そう告げるユウキの声が、微かに震えているのに明日奈は気付いた。葉を落としたポプラの並ぶ公園に沿って右に曲がると、左側に、白いタイル張りの壁を持つ家がひっそりと建っていた。  さらに数歩すすみ、青銅製の門扉の前で明日奈は立ち止まった。 『…………』  肩で、ユウキが長い吐息を漏らした。明日奈はおもわず指を伸ばしてプローブのアクリルドームに添えながら、囁きかけた。 「ここが……ユウキの、お家なんだね」 『うん。……もういちど、見られるとは思ってなかったよ……』  白い壁と緑色の屋根の家は、周囲の住宅と較べると少し小さめだったが、その分たっぷりと広い庭を持っていた。芝生には、白木のベンチつきのテーブルが置かれ、その奥には赤レンガで囲まれた大きな花壇が設けられている。  しかしテーブルは風雨に晒されて色をくすませ、花壇もただ黒土に枯れた雑草がちらほら生えているだけだ。両隣の家の窓ガラスからは、団欒の暖かなオレンジ色がこぼれているのに、白い家の窓はすべて雨戸が閉められて生活の気配はまったく無い。  しかしそれも当然と言えた。かつてこの家に暮らした、父、母と娘二人の家族は、今はもう一人を残すのみなのだ。そしてその一人も、エアシールされた扉の向こうで、機械群に囲まれたベッドに横たわり、そこから出ることはかなわないのだ。  最後の残照の下ですみれ色に染まる家を、明日奈とユウキはしばし無言で見つめ続けた。やがて、ユウキがぽつりと呟いた。 『ありがとう、アスナ。ボクをここまで連れてきてくれて……』 「……中に、入ってみる?」  誰かに見咎められれば困ったことになりかねなかったが、それでも明日奈はそう尋ねた。しかし、ユウキはういんとレンズを左右に振りながら、言った。 『ううん、もうこれで充分。さ……早く帰らないと、遅くなっちゃうよ、アスナ』 「まだ……もうしばらくなら、大丈夫だよ」  反射的にそう答えて、アスナは後ろを振り向いた。細い道を挟んだ向かいには公園があって、その外周を石積みの基部を持つ生垣が取り巻いている。  アスナは道を渡ると、膝の高さの石積みに腰掛けた。プローブのまっすぐ正面に、長い眠りの中にある小さな家を捉える。ここからなら、ユウキの視界にも敷地の全景が入るはずだ。  更にしばらく沈黙を続けたあと、ユウキが言葉を発した。 『この家で暮らしたのは、一年足らずだったんだけどね……。でも、あの頃の一日一日は、すごく良く覚えてる。前はマンションだったから、庭があるのがとっても嬉しくてね。ママは感染症を心配していい顔しなかったけど、いつも姉ちゃんと走り回って遊んでた……。あのベンチでバーベキューしたり、パパと本棚作ったりもしたよ。楽しかった……』 「いいなー。わたし、そんなことした事ないよ」  明日奈の家にも、広大と言っていいほどの庭園がある。しかし、父母や兄と、そこで遊んだ記憶は明日奈にはなかった。いつも一人でままごとをしたり、絵を描いたりしていた。だから、ユウキの語る家族の思い出は、深い憧憬を伴って明日奈の胸にも響いた。 『じゃあ、今度二十二層のアスナの家でバーベキューやろうよ?』 「うん! ……ぜったい、約束だよ。わたしの友達も、シーエンたちもみんな呼んで……」 『うひゃ、なら、お肉すごい用意しといたほうがいいよー。ジュンとタルケンが、むっちゃくちゃ食べるから』 「ええ? そんなイメージじゃないけどなー」  あはは、と笑いあってから、再び家に視線を戻す。 『今ね……、この家のせいで、親戚中大もめらしいんだ』  呟いたユウキの声は、再びわずかに寂しさの色を滲ませていた。 「大もめって……?」 『取り壊してコンビニにするとか、更地にして売るとか、このまま賃貸しするとか……みんな色んなこと言ってるみたい。こないだなんか、パパのお姉さんって人が、VRワールドまでボクに会いに来たんだよ。病気のことわかってから、リアルじゃすごい避けてたくせにさ……。ボクに……——書けって……』  遺書を——ということなのだろう。明日奈は思わず息を詰め、歯を噛み締めた。 『あ、ごめんね、変な愚痴言っちゃって』 「う……ううん、いいよ。——すっきりするまで、もっと言っちゃいなよ」  どうにか、ちゃんとした声を出せた。 『じゃ、言っちゃう。でね……言ってやったんだ。現実世界じゃボク、ペン持てないしハンコも押せないけど、どうやって書くんですか? って。叔母さん、口ぱくぱくしてたよ』  ふふふ、とユウキは笑みを漏らす。つられて、明日奈も少し微笑む。 『でね、そのときに、この家はこのまま残してほしい、ってお願いしたんだけどね。管理費なら、パパの遺産で十年分くらいは出せるはずだからさ。でもね……やっぱ、ダメみたい。多分、取り壊されちゃうことになると思う。だから、その前に、もう一度見たいと思ってたんだ……』  家の各所をズームしているのだろう、サーボ機構の立てる微音が、明日奈の右耳に伝わった。ユウキの思いが詰まったようなその音を聞いているうちに、胸がいっぱいになってしまった明日奈はつい、思いついたことをそのまま口にしていた。 「じゃあ……こうすればいいよ」 『え……?』 「ユウキ、今十五だよね。十六になったら、好きな人と結婚するの。そうすれば、その人がずっとこの家を守ってくれるよ……」  言ってしまってから、あっと思った。ユウキに好きな相手がいるとすれば、それはまず間違いなくスリーピングナイツ男性陣の誰かだろうが、そのメンバーは全員が難治性疾患と闘う身なのだ。すでに余命を宣告されている人もいると言う。つまりたとえ結婚しても、状況は大きく変わらないか余計複雑になるのであり、そもそも結婚というのは相手の事情や感情だってあるではないか……。  しかし、ユウキは一瞬沈黙したあと、あははははと大声で笑った。 『あははは、ア、アスナ、凄いこと考えるねえ! なるほど、それは思いつかなかったよー。うーんそっか、いい考えかも。婚姻届なら、がんばって書こうって気になるしね! ——でも、残念だけど、相手がいないかなー』  まだあははと笑い続けるユウキに、明日奈は首を縮めながらも言葉を返す。 「そ、そう……? ジュンとか、いい雰囲気だったじゃない」 『あーだめだめ、あんなお子様じゃ! そうだねえ……えーと……』  急に声にいたずらっぽい響きを混ぜて、ユウキは言った。 『ね、アスナ……ボクと結婚しない?』 「えっ……」  思わず絶句する。アメリカに倣って同性間結婚を法的に認めようという議論は、毎年何度かマスコミの話題に上るが、なかなか衆議院の本会議にまではたどり着けないでいる。というようなことを瞬間的に考えながら、明日奈が動転していると、先にユウキがもう一度愉快そうに笑った。 『ごめんごめん、冗談。アスナにはもう、大事な人いるもんね。あの人でしょ……このカメラの調整してくれた……』 「え……その……うん、まあ……」 『気をつけたほうがいいよー』 「へ……?」 『あの人も、ボクたちとは違う意味で、現実じゃないとこで生きてる感じがするから』 「…………」  ユウキの言葉の意味を考えようとしたが、頭のなかがぐるぐるして中々収まらなかった。熱くなった頬をさする明日奈の横顔にちらりとレンズを向けてから、ユウキは穏やかな声で言った。 『ほんとに、ありがとう、アスナ。この家をもう一度見られただけで、ボクは凄く満足してるんだ。たとえ、家がなくなっても、思い出はここにある。ママやパパ、姉ちゃんと過ごした、楽しかった頃の記憶は、ずっとここにあるんだから……』  ここ、というのが、家のある土地ではなく、ユウキの心の中を指す言葉であることが明日奈には判った。  この家の姿は、自分の中にももう刻まれている、という気持ちを込めて明日奈は大きく頷いた。ユウキの言葉は続いた。 『……ボクや姉ちゃんが、薬を飲むのが辛くて泣いたりすると、ママはいつもイエス様の話をしてくれたんだ。イエス様は、私達に、耐えることのできない苦しみはお与えにならない、って。それで、姉ちゃんと、ママと一緒にお祈りしながら、でも、ボクは少しだけ不満だった。ほんとは、聖書じゃなくて、ママ自身の言葉で話してほしいって、ずっと思ってた……』  わずかな間。すっかり濃紺に変わった空に、大きな赤い星がひとつ瞬き始めている。 『でもね、今この家をもう一度見て、わかったんだ。ママは、ずっとボクに話しかけてくれてた。言葉じゃないんだ……気持ちで、包んでくれてた、って。ボクが、最後まで、まっすぐに前を向いて歩いていけるように、ずっと祈ってくれてた……ようやく、それがわかったよ』  明日奈の眼にも、白い家の窓際にひざまずいて、星空に向かって祈りを捧げる母と二人の娘の姿が見えるような気がした。ユウキの静かな声に導かれるように、明日奈はいつしか、ずっと、ずっと以前から胸のおくにわだかまっていた気持ちを言葉に乗せていた。 「わたしもね……、わたしも……、もうずっと、母さんの声が聞こえないの。向かい合って話しても、心が聞こえない。わたしの言葉も伝わらない。ユウキ、前に言ったよね。ぶつからなけりゃ、伝わらないことがある、って。どうしたら、ユウキみたいにできるかな……? どうしたら、ユウキみたいに強くなれるの……?」  すでに両親を亡くしているユウキに対して、配慮のない言葉かもしれなかった。すくなくとも、普段の明日奈ならそう考え、口にすることはなかったろう。しかし今だけは、肩のプローブを通して伝わるユウキの精神的波動が、明日奈の心を覆う壁を溶かしていた。まるで幼かったころに戻ったかのように、無心な気持ちで、明日奈は尋ねた。  ユウキは、どこか困ったような声で答えた。 『ボク……強くなんかないよ、ぜんぜん』 「そんなことない。わたしみたいに、人の顔色うかがって、怯えたり、尻込みしたり、ユウキはぜんぜんしないじゃない。すごく……すごく、自然に見えるよ」 『うーん……でもね、ボクも昔、まだ現実世界にいた頃は、いつも違う自分を演じてた気がする。パパもママも、ボクと姉ちゃんを産んだことを、心のどこかでずっと謝ってたの分かってたし……。パパとママのために、ボクはいつも元気でいなきゃ、病気のことなんかぜんぜんへっちゃらでいなきゃ、って思ってた。だから、メディキュボイドに入ってからも、そんなふうにしか振舞えなくなっちゃったのかも。本当のボクは、周りのぜんぶを恨んで、憎んで、毎日泣き喚いてるような子なのかもしれないよ』 「……ユウキ……」 『でもね、ボクは思うんだ。演技でもいいや……って。強いふりをしてるだけでも、それで笑顔でいられる時間が増えるなら、ぜんぜんかまわないじゃない、ってさ。ほら、ボク、もうあんまり時間がないからさ……。誰かと触れ合うときに、遠慮して、遠くから気持ちの端っこを突っつきあったりする時間が勿体無いって、どうしても思っちゃうんだよね。それなら最初からどかーんとぶつかってさ。もし相手に嫌われちゃっても、それはそれでいいんだ。その人の心のすぐ近くまで行けたことには変わりないもんね』 「……そうだね……。ユウキがそうやってくれたから、わたしたち、たった何日かでこんなに仲良くなれたんだよね……」 『ううん、それはボクじゃないよ。ボクが逃げても、アスナがいっしょうけんめい追いかけてくれたからだよ。——昨日、モニタルームにいるアスナを見て、声を聞いてたら、アスナの気持ちがすごく伝わってきた。この人は、ボクの病気のことを知っても、まだボクにもう一度会いたいって思ってくれてるんだ、って分かって、本当に……本当に、泣いちゃうくらい嬉しかったんだ』  一瞬声を詰まらせてから、ユウキは続けた。 『……だから、お母さんとも、あの時みたいに話してみたらどうかな。気持ちって、伝えようとすればちゃんと伝わるものだって思うよ。だいじょうぶ、アスナはボクよりずっと強いもん。ほんとだよ。ぶつからなきゃ、伝わらない……アスナがどーんってぶつかってきてくれたから、ボクは、この人にならボクの全部を預けられるって、そう思えたんだ』 「……ありがと。ありがとう、ユウキ」  どうにかそれだけ言って、明日奈は目尻に滲む涙がこぼれないように、上を向いた。首都圏の、完全には暗くなることのない夜空にも、人工の光に負けずに煌めく星たちをいくつも数えることができた。  駅に戻ったところで、プローブのバッテリ残量アラームが鳴った。明日奈はユウキと翌日また一緒に授業を受けることを約束し、携帯端末の接続を切った。  ふたたび電車を乗りついで、世田谷の自宅に帰りついたときには、九時を大きく回っていた。  しんと冷たい空気に沈む玄関ホールに、ドアロックのかかる音がやけに大きく響くのを聞きながら、明日奈は大きく一回息をした。右肩には、まだユウキが腰掛けていた重みがわずかに残っている。その暖かさをそっと左手で押さえてから、靴を脱ぐと、足早に自室に向かった。  室内着に着替え、すぐに廊下に出る。向かったのは、同じ二階の奥にある兄・裕明の書斎だ。父親と同じく殆ど家に居着こうとしない裕明は、当然まだ帰っていないだろうと思いながらノックをしたが、やはり返事は無かった。構わず、勝手にドアを開ける。  書斎とは名ばかりの、本物の書物はほとんど存在しない部屋の中央に、大きなビジネスデスクがでんと横たわっている。その左サイドに、目当てのものがあった。裕明が仮想空間内の会議などに使用しているアミュスフィアだ。  明日奈のものより数段新しいヘッドギアとドライブを掴み上げると、自室に取って返した。早速本体の電源を入れると、予備のアルヴヘイム・オンラインのディスクをドライブに挿入する。ベッドに横になり、裕明のアミュスフィアのアジャスタを自分の頭のサイズにセットして、すぽんと被る。  パワースイッチを入れると、たちまち接続シークエンスが開始され、次いでALOのログイン空間へと転送された。だが明日奈は、いつも使っているメインのアカウントではなく、「他人」になりたい時にたまに使用しているサブアカウントでALOにダイブした。  出現したのは、二十二層、森の家のリビングルームだった。しかし体はいつもの「アスナ」ではなく、「エリカ」という名の別キャラクターだ。服装をチェックし、腰に帯びていた二本のダガーを外してチェストに仕舞う。即座にメニューを開き、一時ログアウトコマンドを実行する。  ほんの数十秒のダイブから、明日奈はたちまち現実の自分の部屋へと復帰した。頭からアミュスフィアを外すが、青いインジケータはゆっくりと点滅を続けている。これはVRワールドとの接続がサスペンド状態になっているという表示であり、再度頭に装着してパワースイッチを入れれば、ログイン過程をスキップしてゲームに戻ることができる。  兄のアミュスフィアを手にしたまま、明日奈は立ち上がった。ナーヴギアと違って、アミュスフィアはドライブ本体とは無線で接続されており、家の中であればほとんど端から端まで回線を維持できるはずだ。  ドアを開け、再び廊下に出ると、今度は少々重い足取りで階段を降りた。  一階のリビング、ダイニングを覗いたが、やはりもうテーブルは綺麗に片付けられ、母親の姿は無かった。さらに屋敷の奥へと向かい、廊下を一度曲がると、その先の、母親の仕事部屋のドアの下部からうっすらと光が漏れているのに気付いた。  ドアの前で立ち止まり、ノックしようと右手を上げてから、何度か躊躇う。  いつから、母親の部屋を訪ねるのが、こんなにも気詰まりになってしまったのだろう、と明日奈は苦い笑みとともに考えた。しかしそれは多分、半ば以上明日奈に原因があることなのだろう。気持ちが伝わらないのは——伝えようとしていなかったせいだ。それを、ユウキが気付かせてくれた。  明日奈はぐっと息を吸うと、音高くドアをノックした。  すぐに、どうぞという声が微かに聞こえた。ノブを回し、開いた隙間に体を滑り込ませると、後ろ手にドアを閉める。  京子は、重厚なチーク材の机に向かい、昔ながらのパソコンのキーボードに指を走らせていた。しばらくそのままキーを高い音とともに叩きつづけてから、一際強くリターンキーを鳴らし、ようやく体を椅子の背に預ける。眼鏡を押し上げつつ明日奈のほうに向けられた視線は、常にない苛立ちに満ちているように見えた。 「……遅かったわね」  それだけを口にした京子に、明日奈は俯きながら謝罪した。 「ごめんなさい」 「夕食はもう始末しましたからね。何か食べたいなら、冷蔵庫の中のものを勝手にしなさい。この間話した編入申請書の期限は明日ですからね。朝までに書き上げておくのよ」  話は終わった、とばかりにキーボードに手を戻そうとする京子に向かって、明日奈は用意していた言葉を口にした。 「そのことなんだけど……話があるの、母さん」 「言ってみなさい」 「ここじゃ説明し難いの」 「じゃあどこなら言えるのよ」  すぐには答えず、明日奈は京子のかたわらまで進み出ると、左手で体の後ろに下げていたものを差し出した。サスペンド中の、アミュスフィアを。 「VRワールド……。少しだけでいいから、これで、来てほしい場所があるの」  銀色の円環をちらりと一瞥しただけで、京子はおぞましい物を見るように眉間に谷を刻んだ。議論の余地もない、というように右手を振る。 「嫌よ、そんなもの。ちゃんと顔と顔を向かい合わせて出来ない話なんて、聞く気はありませんよ」 「お願い、母さん。どうしても見せたいものがあるの。五分だけでいいから……」  いつもなら、ごめんなさい、と一言だけ言って引き下がる場面だった。しかし明日奈はもう一歩前に出て、間近からじっと京子の瞳を見詰め、言い募った。 「お願いします。わたしが今、何を感じて、何を考えているのか、それを話すのには、ここじゃだめなのよ。一度だけでいい……わたしの世界を、母さんに見せたいの」 「…………」  京子はますます眉間をきつく寄せ、唇を引き結んでじっと明日奈を見ていたが、数秒後、ふうっと長いため息をついた。 「——五分だけよ。それに、何を言われようと、お母さんはあなたを来年度もあの学校に通わせる気はありませんからね。話が終わったら、申請書をちゃんと書くのよ」 「……はい」  明日奈は頷き、左手のアミュスフィアを差し出した。京子は触るのも嫌そうに顔をしかめながらそれを受け取り、ぎこちない手つきで頭に載せた。 「どうすればいいの、これ?」  明日奈は手早くアジャスタを調節してから、言った。 「電源を入れたら、そのまま自動で接続するから。中に入ったら、私が行くまで待ってて」  京子が軽く頷き、椅子の背もたれに体を預けたのを確認して、明日奈はアミュスフィアの右側面にあるパワースイッチを入れた。主インジケータが点灯状態になり、接続インジケータが不規則な点滅を始める。すぐに、京子の体からふっと力が抜けた。  明日奈は急いで仕事部屋から飛び出ると、廊下と階段を全力で駆け抜けて、自分の部屋へ戻った。どすんとベッドに飛び込むと、使い込んだアミュスフィアを頭に載せる。  パワースイッチに触れると、目の前に放射状の光が伸びて、明日奈の意識を現実から切り離した。  見慣れた白木作りのリビングルームに降り立ったアスナは、くるりと部屋中を見渡して『エリカ』の姿を探した。すぐに、食器棚の脇に掛けてある鏡の前に、若草色のショートヘアを持つシルフの少女が立ち、自分の姿を覗き込んでいるのを見つけた。  アスナが近づいていくと、エリカ/京子は肩越しにちらりと振り向き、現実世界の彼女とまったく同じ仕草で眉をしかめた。 「なんだか、妙なものね。知らない顔が自分の思い通りに動くなんて。それに……」  つま先で、何度か体を上下させる。 「ヘンに体が軽いわ」 「そりゃあそうよ。その体の体感重量は四十キロそこそこだもの。現実とはずいぶん違うはずよ」  微笑を交えながらアスナが言うと、京子は再び不愉快そうに眉根を寄せた。 「失礼ね、私はそんなに重くありませんよ。——そう言えば……あなたは向こうと同じ顔なのね」 「うん……まあね」 「でも、少し本物のほうが輪郭がふっくらしてるわね」 「お母さんこそ失礼だわ。現実とまったく一緒です」  言葉を交わしながら、アスナは、前に京子とこんな何気ない会話をしたのは一体いつのことだろう、とふと考えた。もう少しこのままお喋りをしたい、と思ったが、京子は両腕を胸の前で組むと、軽口を打ち切る意思を示した。 「さ、もう時間がないわよ。見せたい物って、何なの」 「……こっちに来て」  アスナはため息を押し殺しながらリビングを横切り、ふだんは物置に使っている小部屋のドアを開けた。京子が覚束ない足取りで付いてくるのを待って、小部屋の奥にある小さな窓へと導く。  南向きのリビングからは、大きな芝生の庭と小道、なだらかな丘とその向こうの湖を美しい絵のように一望することができるが、北向きの物置部屋の窓からは、草深い裏庭と小さな川、間近に迫る針葉樹の森が見えるだけだ。この季節ではそのほとんどが雪に覆われて、寒々しいという以外に表現できない風景である。  しかし、それこそが、アスナが京子に見せたかったものだった。  アスナは窓を開け放つと、深い森を眺めながら言った。 「どう、似てると思わない?」  京子は再び眉をしかめ、小さく首を振った。 「何に似てるって言うのよ? ただのつまらない杉林じゃ——」  言葉は、途中で吸い込まれるように消えた。口を半ば開けたまま、茫然とした視線で窓の外を眺めている。その横顔に向かって、アスナはそっと囁いた。 「ね、思い出すでしょう……お祖父ちゃんと、お祖母ちゃんの家を」  明日奈の母方の祖父母、つまり京子の両親は、宮城県の山間部で農業を営んでいた。家があったのは、急峻な谷間をどうにか切り拓いたような小さな村で、田んぼはすべて棚のように山肌に貼り付き、機械化などしようもなかった。主に作っていたのは米だったが、収穫できるのは一家が一年食べれば無くなってしまうほどの量でしかなかった。  それでもどうにか京子を大学まで進学させることができたのは、ささやかながら先祖伝来の杉山があったからだ。旧い木造の家は、その山裾にうずくまるように建っており、縁側に座ると、見えるものは小さな庭と小川、そしてその奥の杉林だけだった。  しかし明日奈は、幼い頃から京都の結城本家よりも「宮城のじいちゃんばあちゃん」の家に行くことを好んだ。毎年夏休みと冬休みは駄々をこねてまで連れて行ってもらい、祖父母と一緒の布団で、色々な昔話を聞かせてもらったものだ。夏に縁側で食べたかき氷、秋に祖母と一緒に干した柿、色々な思い出があるが、特に良く覚えているのは、真冬、しんしんと冷えるなか掘り炬燵に入って、みかんを食べながら、窓の外の杉林に見入っているという情景だった。  祖父母は、林なんか見て何が面白いのかと訝ったが、白い雪のなかに黒い杉の幹がどこまでも連なるさまを見ていると、心が吸い込まれそうになるのだった。自分が、雪の下の穴で春を待つ子ネズミになったような気がして、心細いような、暖かいような、不思議な感慨に包まれて、いつまでも杉林を見つめ続けた。  祖父と祖母は、明日奈が中学二年の時に相次いで他界した。棚田や山はすべて売却され、住む者のなくなった家は取り壊された。  だから、宮城の山村からは物理的にも観念的にも遥かに隔たった場所であるアインクラッド二十二層にこの家を買い、北の窓から雪深い針葉樹林を見たとき、明日奈の胸には泣きたくなるほどの郷愁が過ぎったのだった。  京子が、生家が貧しい農家だったことを恥ずかしいと思っていることは知っていた。だがそれでも、明日奈はどうしてもこの窓からの眺めを京子に見せたかった。彼女がかつて毎日のように眺め、そして無理矢理忘れ去ってしまったのであろう風景を。  京子は、無言で杉林に見入っていた。その横に進み出て、アスナはゆっくりと話しはじめた。 「わたしが中一の時の、お盆のこと覚えてる? 父さんと母さん、それに兄さんは京都に行ったけど、わたしはどうしても宮城に行きたいって言い張って、ほんとにひとりで勝手に行っちゃったときのこと」 「…………覚えてるわ」 「あの時ね、わたし、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに謝ったの。お母さんが、お墓参りに来れなくてごめんなさい、って」 「あの時は……結城の本家でどうしても出なきゃいけない法事があったから……」 「ううん、責めてるんじゃないのよ。だってね……お祖父ちゃんたち、私が謝ったら、茶箪笥から分厚いアルバム持ってきてね。中見て、すっごい驚いたよ。——母さんの、最初の論文から始まって、色んな雑誌に書いた記事や、インタビューが、全部ファイルしてあった。ネットに載ったやつまで、プリントして貼ってあったよ。二人とも、パソコンなんてぜんぜん分からなかっただろうにね……」 「…………」 「それで、わたしにそのアルバムを見せてくれながら、お祖父ちゃん言ったわ。母さんは、自分たちのたった一つの誇りなんだ、って。村から大学に進んで、学者になって、雑誌にたくさん寄稿して、どんどん立派になるのが、凄く嬉しいんだ、って。論文や学会で忙しいんだから、お盆に帰れなくても当たり前だし、それを不満に思ったことは一度もない……って……」  京子は、ただじっと森を見詰めながら、無言でアスナの言葉を聞いていた。その横顔には、何の表情も浮かんでいなかった。だが、アスナは懸命に口を動かしつづけた。 「そのあと、お祖父ちゃん、こう続けたの。——でも、母さんも、いつかは疲れて、立ち止まりたくなる時がくるかもしれない。いつか後ろを振り返って、自分の来た道を確かめたくなるかもしれない。その時のために、自分たちはずっと、この家を守っていく……もし、母さんが、支えを欲しくなったときに、帰ってこられる場所があるんだよ、って言ってやるために、ずっと家と山を守り続けていくんだ……。——わたし、その時は、お祖父ちゃんの言葉の意味が全部はわからなかった。でも、最近になって、ようやくわかってきた気がするんだ。自分のために走り続けるのだけが人生じゃない……誰かの幸せを、自分の幸せだと思えるような、そういう生き方だってあるんだ、って」  アスナの脳裏に、キリト、ユウキ、リズベットたち、シーエンたちの顔が一瞬、浮かんだ。 「……わたし、周りの人たちみんなを笑顔に出来るような、そんな生き方をしたい。疲れた人をいつでも支えていけるような、そんな生き方をしてみたいの。そのために——今は、あの学校に行きたい」  言葉を探し探し、アスナはどうにかそこまでを言い終えた。  しかし京子は、口元を引き結んだまま、森を眺めつづけていた。その濃緑色の瞳には、茫漠とした色が浮かんでいるだけで、内心を伺うことはできなかった。  そのまま、およそ五分以上も沈黙が続いた。巨木のあいだの雪原を、ウサギに似た小さな動物が二匹、じゃれあいながら跳ねていった。アスナは一瞬そちらに視線を取られてから、京子の横顔を見直して、ハッと息を飲んだ。  京子の、今は白磁のように透き通った頬に、ひと筋の涙が流れ、ぽたぽたと滴っていた。唇がかすかに動いたようだったが、言葉は聞き取れなかった。  しばらくして京子は、自分が泣いていることにようやく気付き、慌てたように両手で顔を何度もぬぐった。 「ちょっと……何よこれ、私は、別に泣いてなんか……」 「……母さん、この世界では、涙は隠せないのよ。泣きたくなったときは、誰も我慢できないの」 「不便なところね」  吐き捨てるように言い、京子は何度も目を擦っていたが、ついに諦めたように、両の手の平で顔を覆った。やがて、その奥からかすかな嗚咽が漏れ出した。アスナは何度か躊躇ったあと、小刻みに震える京子の肩に、そっと手を乗せた。  翌朝。  朝食のテーブルについた京子は、すっかりいつもどおりの様子で、新聞を捲っていた。おはようの挨拶のあとは静寂のうちに食事が終わり、明日奈は編入申請書を提出しろと言われることを覚悟した。が、京子はいつもに較べるとわずかに険の取れた目つきで明日奈を見て、唐突に言った。 「あなたは、誰かを一生支えていくだけの覚悟があるのね?」  明日奈は慌てて頷いた。 「う……うん」 「——でも、人を支えるには、まず自分が強くなけりゃダメなのよ。大学にはきちんと行きなさい。そのためにも、三学期と、来年度はこれまで以上の成績を取ることね」 「……母さん……じゃあ、転校は……」 「言ったでしょう? 成績次第よ。頑張るのね」  それだけ言うと、京子は足早にダイニングを出て行った。音高く閉まったドアをしばらく凝視してから、明日奈はそっと頭を下げ、ありがとう母さん、と呟いた。  着替え、鞄を持って家を出るまでは、そのまま神妙な態度を保ったが、表門を出たとたん、明日奈は霜の光る路面を思い切り駆け出していた。自然に、唇から笑みが溢れた。  和人に言いたかった。今年も、ずっと同じ学校に通えることを。ユウキに言いたかった。母親と、ちゃんと話が出来たことを。  駅に向かう人波を縫って走りながら、明日奈は駅につくまでずっと、浮かんでくる微笑みを抑えることができなかった。  その三日後、約束どおり、森の家で盛大なバーベキュー大会が催された。  集まったメンバーは、キリト、リズベット、リーファ、シリカらいつもの仲間たちと、ユウキ、シーエンたちスリーピングナイツのメンバー。サクヤ、アリシャ、ユージーンら一部種族の領主たちとその側近。計数十人という大集団の胃を満たすために、わざわざ食材狩りのパーティーが結成されたほどだ。  乾杯の音頭に先駆けて、アスナはスリーピングナイツの面々をあらためて皆に紹介した。病気のことだけは伏せたが、彼らが色々なVRMMOを股にかけた凄腕集団であること、解散前にALOで思い出づくりをしていることなどは、ユウキたちの了承を得てすべて話した。  六十七層ボスをたった七人で攻略した謎のギルドの噂、そして何より辻デュエルで百人以上を斬ってのけた“絶剣”の噂はすでにアルヴヘイム中を駆けめぐっていたようで、サクヤやユージーンなどはさっそく自陣への勧誘を始めたものだ。ユウキは笑って辞退したが、もしスリーピングナイツがいずれかの種族に傭兵として雇われたら、ALOのパワーバランスは大いに変化し、現在進行中のグランドクエスト第二弾の行方に多大な影響を与えたことだろう。  賑やかな乾杯のあと、嵐のような暴飲暴食の宴が始まり、アスナもユウキと一緒に大いに食べ、飲んだ。その席上で、こうなったら六十八層以降のボス攻略も狙っちゃおうということになり、勢いで二次会が六十八層迷宮区踏破ツアーになって、なんとそのまま大人数でボス部屋になだれ込んで巨大な甲殻類型のボスを屠ってしまったのは笑い話に類するものだろう。  剣士の碑に刻まれた名前は、残念ながらユウキと、パーティーリーダーを努めたキリト達数名のものになってしまったが、六十九層はあらためてスリーピングナイツだけでチャレンジすることを約して、その日は解散となった。  アルヴヘイムで冒険を重ねるあいだも、現実世界では、ユウキは双方向通信プローブを使って毎日授業に参加した。和人や直葉の家も一緒に訪ねたし、エギルの店にも遊びに行った。  出会った当初は、妙にカンの良すぎる和人のことを警戒していたユウキだが、互いに片手直剣の使い手とあって話してみるとすぐに打ち解け、ALO内では剣技の研鑚について、現実世界ではプローブの発展形についてなど、盛んに議論を戦わせて時折アスナをやきもきさせたものだ。スリーピングナイツのほかのメンバーたちも、リズベットやリーファたちとそれぞれ仲良くなって、色々なイベントを企画しては大いに楽しんだ。  二月。  アスナとスリーピングナイツは、六十九層、そして七十層のボスをもワンパーティーで撃破して、アルヴヘイム中にその勇名を轟かせた。中旬に開催された統一デュエル・トーナメントでは、東ブロックではキリトが、西ブロックではユウキがそれぞれ破竹の勢いで勝ち進み、決勝はVRMMO情報番組「MMOフラッシュ」で生中継されるとあって、最高潮の盛り上がりを見せた。  無数のプレイヤーたちが固唾を飲んで見守るなか、ユウキとキリトはそれぞれの大技OSSを連発するド派手な激戦を展開し、三十分以上に及んだ試合の最後に、ユウキが神技とも言える十一連撃でキリトを破ったときには、世界中が震えるほどの大歓声が湧き起こった。  四代目統一チャンピオンの座についたユウキの名は、ALOの枠を超えて広く鳴り響いた。  三月。  期末試験を終えた明日奈は、通信プローブを肩に乗せ、里香、珪子、直葉と一緒に、三泊四日の京都旅行に出かけた。その時には、プローブの情報を複数のクライアントに並列して送れるようになっていたため、ユウキだけでなくシーエンやジュンたちにも京都を案内できるとあって、色々な名所を解説する言葉にも力が入った。  宿は結城家の広大な屋敷を有効に利用させてもらい、毎夜色々な京料理に舌鼓を打つことができたが、味ばかりはプローブで送ることができず、散々ユウキたちにずるーいと連発されてしまった。お陰で、帰ってからVR世界で味を再現することを約束させられ、明日奈は料理シミュレーションソフトの中で大変な苦労をすることとなった。  すべてが、夢のように過ぎていった。アスナとユウキは、仮想世界と現実世界で、長い、長い旅をした。行きたい場所は山ほどあるし、時間もまだまだ沢山ある、とアスナは信じていた。  四月まであと数日、となったある日。オホーツク海から張り出してきた寒気団が、関東一円に季節はずれの大雪を降らせた。  春の気配を覆い隠すように積もった厚いぼたん雪が、弱々しい日差しの下でようやくすべて解けかけた頃。  明日奈の携帯に、倉橋医師から、ユウキの容態が急変したという知らせが届いた。  端末の小さなモニタに表示された短いメッセージを凝視しながら、明日奈は胸の奥でただひとつの言葉だけを何度も繰り返していた。  そんなはずはない。  そんなはずがないではないか。このところユウキはとても精力的にあれこれ活動しているし、脳のリンパ腫も進行が止まっていると倉橋医師も言っていた。近年では、HIV感染後、二十年以上ウイルスを押さえ込むことに成功している例も多数あるそうだ。ユウキはまだたった十五歳……なにもかも、これからではないか。急変、というのは、今まで何度かあったという日和見感染の重症化であって、今回だってユウキは乗り越えるはずだ。  しかし、明日奈は心のもう一方で理解してもいた。医師が直接明日奈にメッセージを送ってきたのは、初めてのことだった。つまりこれは、その時が来た——という知らせなのだろう。明日奈が夜毎ベッドの中で、怯えとともに想像しては打ち消してきた、その時が。  せめぎあう二つの声に翻弄されながら、明日奈は数秒間立ち尽くしていたが、やがてぎゅっと一度まばたきしてから、新しくメーラーを起動した。キリトやリズベットたちと、シーエンたちに、短い同一文面のメールを送信する。それが済むと、部屋着を脱ぎ捨てて、服装に迷う時間も惜しかったので機械的に学校の制服を身につけた。靴を履くのももどかしく、表門から半ば駆け出すと、柔らかく降り注ぐ日差しが、先日降った雪の名残に白く跳ね返って明日奈の眼を射た。  三月末の日曜日、午後二時。道ゆく人は皆、待ちわびた春の訪れに浮き立つように、ゆっくりと歩いている。その傍らをすり抜けながら、明日奈は懸命に駅まで走った。  どのように電車の行き先を確かめ、乗り継いだのか、まるで覚えていなかった。ふと我に返ると、港北総合病院の最寄駅の改札を走りぬけたところだった。まるで頭の奥が白くハレーションを起こしたように痺れて、ばらばらの思考の断片がいくつも浮かんでは消えていく。  明日奈はぎゅっと歯を噛み締めると、ユウキ、待ってて、と一言呟いて、ちょうどロータリーに走りこんできたタクシーに駆け寄った。  病院の面会受付窓口には、すでに話が通っていたようだった。明日奈が強張った口で来意を告げると、看護師はすぐにプレートを寄越して、中央棟六階へ急ぐように言った。  エレベーターの階数表示がひとつひとつ増えていくのをじりじりしながら待ち、ドアが開いた途端飛び出す。セキュリティゲートのセンサーに、プレートをぶつけるようにして通過すると、マナー違反と知りつつ再び走る。白く無機質な通路を記憶にある通りに辿り、最後の角を曲がると、ついにユウキが眠る無菌室のドアが視界に入った。  ——その途端、明日奈は息を飲んで立ち尽くした。  二つ並んだドアのうち、手前がモニタルームの入り口だ。そしてその奥、いかにも厳重そうな注意書きが大書してあるのが、エアシールされた無菌室のドア。以前明日奈がこの場所を訪れたときは、当然のように固く閉じられていたそれが、今は大きく開け放たれていた。茫然と見つめるうちに、そこから何の変哲もないナースウェアを身につけた看護師が一人、足早に姿を現した。  看護師は明日奈を見ると短く頷き、横を通り抜けながら、「早く中へ」と囁いた。その声に促され、よろよろと数歩進み、ドアの前に立つ。  白一色の部屋の内部が、否応なく眼に飛び込んできた。  あれほど沢山あった機械類の殆どは、左の壁際へと押しやられていた。中央のジェルベッドの周囲には、二人の看護師と一人の医師が付き添い、横たわる小さな姿を見守っていた。三人とも、通常の白衣姿だった。  その光景を見た瞬間、明日奈は悟った。全ては、もう、取り返しのつかない段階へと入ってしまっているのだということを。はるか以前に既定された「その時」が訪れるのを、ただ見守ることしかできないのだということを。  倉橋医師が顔を上げ、明日奈の姿を認めた。左手を上げ、短く差し招く。半ば自動的に、ふらつく足を交互に動かして、明日奈は部屋の中へと入った。  ジェルベッドまではほんの数メートルなのに、とてつもなく長く感じた。冷徹な現実までの残り距離を一歩一歩削り取るように歩き、明日奈はベッドの傍らに立った。  白いシーツを胸まで掛けられた、痩せ細った少女が横たわり、薄い胸をごくゆっくり上下させていた。右上の心電図が、緑色の波形を弱々しく刻んでいる。  以前に見たときは、少女の頭をほぼ覆い隠していたメディキュボイドが、その長方形の筐体を二つに分離させていた。ちょうど耳の線から上の部分が、九十度後ろに倒されている。内部はちょうど人の頭の形にくぼんでおり、そこに眼を閉じた少女の顔が包まれていた。  初めて目にする、現実世界のユウキの顔は、痛々しいほど肉が落ち、透けるように色素が薄かった。しかしその容姿は、明日奈にどこか神秘的な美しさを感じさせた。本物の妖精がもしいるなら、こういう姿を持っているかもしれないと思わせるものがあった。  無言のままユウキを見つめていると、いつの間にか横に立っていた倉橋医師が、低い声で言った。 「よかった……間に合って」  間に合う、という言葉に受けいれがたいものを感じた明日奈は、きっと顔を上げ、医師を見た。だが、眼鏡の奥の細い、理知的な眼は、あくまでいたわるように明日奈を見ていた。再び、医師が言った。 「四十分前、一度心臓が停止しました。投薬と除細動によって脈拍が戻りましたが、恐らく、次は……もう……」  明日奈はぐっと息を詰めてから、食い縛った歯のあいだから掠れた声を絞り出した。しかし、意味のある言葉を組み立てることはできなかった。 「なんで……なんでですか……。だって……だって、ユウキは、まだ……」  医師は一度頷いてから、かすかに首を左右に振った。 「——本当は、一月にあなたがここを訪れた頃から、いつこの日が来てもおかしくなかったのです。HIV消耗性症候群による発熱と、脳原発性リンパ腫の進行で、木綿季くんの命はずっと、薄い氷の上を歩くような状況にあった。しかし木綿季くんは、この三ヶ月、我々も驚愕するような頑張りを見せた。絶望的な闘いを、日々勝ち続けてきたのです。彼女は、充分すぎるほどに頑張った……いや——それを言うなら……」  ここで初めて、医師の声がわずかに震えた。 「木綿季くんにとっては、この十五年の生そのものが長い、長い闘いだったのです。HIVとだけじゃない……冷酷な現実そのものに、彼女はずっと抗いつづけてきた。メディキュボイドの臨床試験も、彼女には計り知れない苦痛を与えたはずです。しかし……木綿季くんは頑張りぬいた。彼女がいなければ、メディキュボイドの実用化は確実に一年は遅れたでしょう。だからもう——ゆっくり、休ませてあげましょう……」  医師の言葉を聞きながら、明日奈は胸のうちでそっとユウキに語りかけていた。  ユウキが——「負ける」わけないよね。だって、あなたは“絶剣”……何だって斬れないものはない、絶対最強の剣士だもん。ユウキは勝ったよ。病気にも……運命にも——。  その時だった。  ユウキがかすかに頭を動かした。薄いまぶたが震え、ほんの少しだけ持ち上がった。その奥、すでに光を失っているはずの灰色がかった瞳が、澄んだ光を湛えて、まっすぐに明日奈を見た。  ほとんど肌と同じ色の唇が小さく動いた。同時に、シーツのしたで細い右手がぴくりと震えて、ゆっくり、ゆっくりと明日奈のほうへ差し伸べられた。  医師が、感極まったような声で囁いた。 「明日奈さん……手を、握ってあげてください」  その言葉が終わらないうちに、明日奈は両手を伸ばし、ユウキの骨ばった右手を包み込んでいた。ひんやりとした手が、何かを求めるように明日奈の指をきゅっと握った。  瞬間、明日奈は天啓のように理解した。ユウキが、本当は何を欲しているのかを。  ユウキの手を握ったまま、さっと顔を上げた明日奈は、医師に向かって早口に言った。 「先生……今、メディキュボイドは使えますか?」 「え——それは、電源を入れれば……。しかし……木綿季くんも、最後は機械の外で……」 「いえ、ユウキはもういちどあの世界に行きたがってます。わたしにはわかるんです。お願いします……もう一度、メディキュボイドを使わせてあげてください」  医師は数秒間じっと明日奈を見ていたが、やがてぐっと頷いた。傍らの看護師たちにいくつか指示をしてから、メディキュボイドの上半分をそっと半回転させ、ユウキの頭に被せる。 「起動に一分ほどかかりますが……あなたは?」 「隣のアミュスフィアを使わせてもらいます!」  言いながら、明日奈は最後にユウキの手をぎゅっと握り、体の横へと戻した。待ってて、すぐ行くからね——と囁き、身を翻す。  無菌室を飛び出し、隣のモニタルームに駆け込むと、奥のドアを開けた。二つ並んだシートの片方に飛び乗ると、ヘッドレストの横からアミュスフィアを取り上げ、頭に乗せる。パワースイッチを入れ、起動シークエンスを待つ間も、明日奈の心はすでにあの場所へと飛んでいた。  森の家で覚醒したアスナは、前に病院からログインしたときと同じように、寝室の窓から飛び出すと全速で主街区を目指した。飛行するあいだに、ウインドウを開くと、念のために待機してもらっていたリズベットやシーエンたちにメッセージを飛ばす。  転移門に飛び込むと、迷うことなくセルムブルグを指定する。湖上都市に出現するや否や、今度は湖の彼方にあるあの島を目指す。二人がはじめて出会った、あの大樹の下を。  アインクラッドは夕暮れだった。外周部から差し込む夕陽が、湖を金色に染めていた。その光の帯に導かれるように、アスナはまっすぐ小島の上空に達すると、急降下して柔らかい草地の上に降り立った。  樹の周囲を捜す必要はなかった。ユウキは、もはやはるかな昔のように思えるあの日、二人が剣を交えたまさにその場所に立っていた。やや冷たい風に濃紺のロングヘアを揺らしながら、ユウキはゆっくりと振り向いた。  近づくアスナの姿を見ると、ユウキはにこりと笑った。アスナもくしゃっと微笑みを返す。 「——ありがとう、アスナ。ボク、大事なことをひとつ忘れてたよ。アスナに、渡すものがあったんだ。だから、どうしてももう一度ここで会いたかった」  その声はいつものように朗らかだったが、ほんの、ほんの少しだけ揺らいでいた。そうやって立ち、話しているだけで、ユウキが全身のエネルギーを振り絞っているのだということがアスナには分かった。  だが、アスナはユウキの前まで歩くと、首を傾け、同じように明るく尋ねた。 「なに? わたしに渡すものって」 「えーとね……いま作るから、ちょっと待って」  にっと笑うと、ユウキはウインドウを出し、何か短い操作を加えた。それを消すと、右手で腰の剣を、しゃらんと音高く抜き放つ。  赤い夕陽を受けて、ユウキの黒曜石の剣は燃えるような輝きを放っていた。それを体の正面で、大樹の幹に向かってまっすぐに構える。そのまま、ユウキはしばらく動かなかった。——まるで、残された最後の力を、すべて剣尖の一点に集めようとしているかのように、アスナには思えた。  ユウキの横顔が、苦痛を感じたようにわずかに歪んだ。ふらっと上体が揺れたが、ぐっと開いた足を踏ん張ってこらえる。  もういいよ、無理しなくていいよ、と言いたかった。しかしアスナはきつく唇を噛み、待った。さわっと草原を風が渡り、止んだ、その瞬間ユウキは動いた。 「やあっ!!」  裂ぱくの気合とともに、右手が閃いた。樹の幹に向かって、右上から左下に、神速の突きを五発。ぎゅん、と剣を引き戻し、今度は左上から右下に五発。突き技が一発命中するたび、凄まじい炸裂音が鳴り響き、天を突く大樹全体がびりびりと震えた。樹が破壊不能オブジェクトでなければ、間違いなく半ばからへし折れているだろうと思えた。  十字に十発の突きを放ったユウキは、もう一度ぎゅうっと全身を引き絞ると、最後の一撃を交差点に向かって突き込んだ。青紫色の眩い光が四方に迸り、足元の草が放射状にばあっと倒れた。  吹き荒れた突風が収まっても、ユウキは剣を幹に突きたてたままぴたりと動きを止めていた。  と、その剣尖を中心にして、小さな紋章が回転しながら展開した。同時に、じわじわと四角い羊皮紙が樹の表面から湧き出すように出現し、青く光る紋章を写し取ると、端からくるくると巻き上がっていく。  ユウキが剣を戻すと、完成したスクロールはそのまま宙に漂った。ゆっくりと左手を伸ばし、ユウキはそれを掴んだ。  かしゃん、と小さな音を立てて、右手の剣が草むらに落ちた。直後、ユウキの体がぐらりと揺れ、崩れ落ちようとした。アスナは素早く駆け寄ると、その体を支えた。そのままそっと腰を落とし、小さな体を両腕で包むように抱え上げる。  ユウキが眼を閉じていたので、一瞬どきんとしたが、すぐにその目蓋はすっと持ち上がった。ユウキはかすかに微笑むと、囁くように言った。 「へんだな……。痛くも、苦しくもないのに、なんか力が入らないや……」  アスナも微笑みかえすと、言った。 「だいじょぶ、ちょっと疲れただけだよ。休めば、すぐによくなるよ」 「うん……。アスナ……これ、受け取って……。ボクの……OSS……」  その声は、先ほどとは打って変わって途切れ途切れに震えていた。ユウキに残された最後の器官、意識の拠り所たる脳までもがすでに力尽きようとしていることを悟って、アスナの心に狂おしいほどの激情が吹き荒れたが、それを押し殺してもう一度微笑んだ。 「わたしに、くれるの……?」 「アスナに……受け取って……ほしいんだ……。さ……ウインドウを……」 「う……うん」  アスナは左手を振ると、ウインドウを出し、OSS設定画面を開いた。ユウキはぶるぶると震える左手を持ち上げると、そこに握られた小さなスクロールを、そっとウインドウに落とした。スクロールは光とともにたちまち消滅し、それを見たユウキは、満足そうなため息とともにぱたりと左手を落とした。ふわりと笑ってから、消え入るようにかすかな声で言った。 「技の……名前は……『マザーズ・ロザリオ』……。きっと……アスナを……守って、くれる……」  それを聞いた瞬間、ついに堪えきれなかった涙がいくつか、ユウキの胸元に落ちた。だが微笑みは消さないまま、アスナははっきりとした声で言った。 「ありがとう、ユウキ。——約束するよ。もしわたしがいつか、この世界から立ち去るときが来ても、そのときもかならずこの技は誰かに伝える。あなたの剣は……永遠に絶えることはない」 「うん……ありがと……」  ユウキはこくりと頷いた。その眼にも、光るものが滲んだ。  その時だった。いくつかの震動音——飛翔音が、重なって響いてきた。それはたちまち大きくなり、アスナとユウキを取り巻くように、立て続けにブーツが草を踏む音がした。顔を上げると、ジュン、テッチ、タルケン、ノリ、シーエンの五人が、我先にと駆け寄ってくるところだった。  五人は、ユウキを半円形に囲んで膝を落とした。ぐるりと皆の顔を見回し、ユウキは困ったように笑った。 「なんだよ……みんな、お別れ会は……こないだ、したじゃん。最後の見送りは……しないって、約束……なのに……」 「見送りじゃねえ、カツ入れに来たんだよ。次の世界で、リーダーが俺たち抜きでしょぼくれてちゃ困るからな」  にやっと笑いながら、ジュンが言った。赤銅のガントレットに包まれた手で、ユウキの右手をぐっと掴み、続ける。 「次に行ってもあんまウロウロしねえで待ってろよ。俺たちもすぐに行くからよ」 「何……言ってんの……。あんますぐ……来たら、怒る……からね」  ちっちっと舌を鳴らし、今度はノリが威勢のいい声で言った。 「だめだめ、リーダーはあたしらが居なきゃなんも出来ないんだから。ちゃんと、おとなしく待っ……待って……」  突然、ノリの顔がくしゃっと歪み、大きな黒い瞳から涙がぼたぼたと落ちた。喉のおくから、堪えきれないように嗚咽を二度、三度と漏らす。 「だめですよ、ノリさん……泣かないって、約束ですよ……」  笑顔で言葉を挟んだシーエンの頬も、二筋の涙できらきらと光っていた。最早溢れる涙を隠そうともせず、タルケンとテッチもユウキの手をぎゅっと掴む。  ユウキは五人の顔をぐるりと見回すと、泣き笑いの顔で言った。 「しょうがないなあ……みんな……。ちゃんと、待ってる……から、なるべくゆっくり……来るんだ、よ……」  スリーピングナイツの六人は、手を重ね合わせると、再会を誓うようにぐっと力強く頷きあった。シーエンたちが立ち上がるのと前後するように、新たな翅音がいくつか近づいてきた。  現われたのは、キリト、リズベット、リーファ、シリカの四人だった。皆、着地すると同時に駆け寄ってくると、ユウキを囲む輪に加わり、それぞれ一度ずつユウキの手を握る。  ユウキを腕の中に横たえ、涙に揺れる視界でその情景を見ながら、アスナはふとあることに気付いた。キリトたちが降り立っても、どこからかかすかな飛翔音が聞こえてくる。それもひとつではない。様々な種族の翅音が、いくつも、いくつも重なって、荘厳なオルガンのような反響音を作り出している。  アスナも、ユウキも、シーエンやリズベットたちも、ふっと空を振り仰いだ。  見えたのは、セルムブルグの方向からこちらに向かって伸びる、ひと筋の太いリボンだった。  何十人ものプレイヤーが、列を作って飛んでくる。その先頭にあるのは、長衣の裾をはためかせて飛ぶ、シルフ領主サクヤの姿だ。後ろに続くのは、様々な階調のグリーンを身にまとうシルフたちである。あの人数では、今ログインしているシルフのほぼ全員が集まっているに違いない。  いや——セルムブルグからだけではない。外周部のいろいろな方向から、いくつもの帯が小島目指して伸びてきていた。赤いリボンはサラマンダー。黄色いのはケットシーだろうか。インプ、ノーム、ウンディーネ……それぞれのリーダーに率いられたプレイヤーの大集団が、一直線に大樹へと向かって集まってくる。その数五百……いや、千を超えるだろうか。  アスナの腕のなかで、眼を見開いたユウキが、感嘆の声を漏らした。 「うわあ……すごい……。妖精たちが……あんなに、たくさん……」  アスナはユウキに微笑みかけながら言った。 「ごめんね、ユウキは嫌がるかもって思ったんだけど……わたしが、リズたちにお願いして呼んでもらったの」 「嫌なんて……そんなこと、ないよ……。でも、なんで……なんでこんなに、たくさん……夢……見てるのかな……」  ユウキが吐息混じりに囁くあいだにも、小島の上空にまで達した剣士たちは、次々と滝のような音を立てて降下してきた。サクヤやアリシャたち領主を先頭とした大集団は、すこし距離を置いてアスナたちを取り囲むと、次々に草地に片膝を着き、こうべを垂れる。さして大きくもない島は、みるみるうちに無数のプレイヤーで一杯になった。  アスナはユウキの瞳をじっと見つめ、一杯になった胸のうちをどうにか言葉にしようと、唇を動かした。 「だって……だって……」  再び、ぽたぽたと涙が滴る。 「ユウキ……あなたは、かつてこの世界に降り立った、最強の剣士……。あなたほどの剣士は、もう二度と現われない。そんな人を、さびしく見送るなんて……できないよ。みんな、みんなが、祈ってるんだよ……ユウキの、新しい旅が、ここと同じくらい素敵なものに、なりますように、って」 「…………嬉しい……ボク、嬉しいよ……」  ユウキは首を持ち上げ、周囲を取り囲む剣士たちをぐるりと見渡すと、ふたたびがくりとアスナの腕に頭を預けた。  目蓋を閉じ、小さな胸で何度か深く息をついてから、ユウキは再び紫色の瞳でじっとアスナを見た。すうっと大きく息を吸い、まるで最後の力をすべて振り絞るかのように、切れぎれだがはっきりとした声で話しはじめた。 「ずっと……ずっと、考えてた。死ぬために生まれてきたボクが……この世界に存在する意味は、なんだろう……って。 「何を……生み出すことも……与えることもせず……たくさんの薬や、機械を……無駄づかいして……周りの人たちを困らせて……自分も悩み、苦しんで……その果てに、ただ消えるだけなら……今この瞬間にいなくなったほうがいい……何度も、何度もそう思った……。なんで……ボクは……生きてるんだろう……って……ずっと……」  ユウキの、残された命の最後の一滴までが、今まさに燃え尽きようとしていた。腕の中の小さな体が、少しずつ軽くなり、透き通っていくようだった。ユウキの声はか細く、切れぎれだったが、しかしそれはかつて聞いたどんな言葉よりも純粋に、アスナの魂の深奥まで届いた。 「でも……でもね……ようやく、答えが……見つかった、気がするよ……。意味……なんて……なくても……生きてて、いいんだ……って……。だって……最後の、瞬間が、こんなにも……満たされて……いるんだから……。こんなに……たくさんの人に……囲まれて……大好きな人の、腕のなかで……旅を、終えられるんだから…………」  ユウキは短い吐息とともに言葉を止めた。その紫色の瞳は、アスナを透過して、どこか遥かに遠い場所を望んでいるかのようだった。もしかしたら、ほんとうの異世界——英雄たちの魂が集うという、真なる妖精の島を。  アスナはもう、流れ落ちる涙を止めることはできなかった。零れた滴たちは、次々にユウキの胸元で光の粒を散らした。しかし、口元には、いつしか自然と微笑みが浮かんでいた。大きく一度頷いてから、アスナはユウキに最後の言葉を告げた。 「わたし……わたしは、かならず、もう一度あなたと出会う。どこか違う場所、違う世界で、絶対にまた巡り合うから……そのときに、教えてね……ユウキが、見つけたものを……」  瞬間、ユウキの紫の瞳が、ぴたりとアスナの瞳をとらえた。その奥に、かつて出会ったときと同じ、無限の活力と勇気に満ちた輝きが、刹那のあいだきらめいた。それはすぐに、二つの水滴へと形を変え、溢れ、ユウキの白い頬を伝って滴り、光となって消えた。  唇がごく、ごくかすかに動いて、微笑みの形を作った。アスナの意識に直接、声が響いた。 「ボク、がんばって、生きた」 「生きて……よかった」  降り積もった無垢な雪原に最後の結晶がひとつ落ちるように、ユウキは、そのまぶたをそっと閉じた。  制服の右肩に、ふとかすかな気配を感じて視線を落とすと、薄桃色の花びらが一枚貼り付いていた。  明日奈は左手の指先で慎重にそれをつまみあげ、手の平に載せた。染みひとつ無い綺麗な楕円形の花びらは、まるで何か言いたいことでもあるかのようにしばらく震えていたが、やがて訪れた風に巻き上げられ、同じように宙を舞う無数の白点のなかに姿を消した。両手を膝の上に戻し、明日奈は再び霞がかった春の空を見上げた。  四月最初の土曜日、午後三時。一週間前に旅立ったユウキの告別式が、つい先ほど終わったところだった。式場となった、保土ヶ谷の丘陵地帯にあるカソリック教会は周囲を桜並木に取り囲まれて、一斉に散り始めた花たちもまるでユウキを送っているかのよう——であったのだが、式のほうは「しめやかに」、あるいは「ひそやかに」というお決まりの形容詞は似合わないものとなった。ユウキの親戚筋の出席者が、喪主を務めた叔母という女性を含めてわずか四人だったのに対して、友人を名乗る十代二十代の参列者が優に百人を超えたからだ。無論、ほぼ全員がALOプレイヤーである。三年を超える入院生活を経て、告別に訪れるようなユウキの知人はもう殆ど居ないと思っていたのだろう親戚側も、受付で眼を白黒させていた。  式が終わっても、皆は教会の広大な前庭に三々五々固まり、“絶剣”の思い出話に浸っているようだった。しかし、明日奈は何故かその輪に加わる気になれず、こっそり抜け出すと礼拝堂の陰にあるベンチを見つけて、ひとり空を見ていたのだった。  もう、ユウキがこの世界には居ないのだということ——肩のプローブ越しに歓声を上げたり、森の家でアスナの料理に満面の笑みを浮かべたりしたユウキが、遠い世界に旅立ってしまって、二度と戻ることはないのだということが、どうしても現実として理解できなかった。涙はようやく涸れたけれど、雑踏の中や喫茶店の片隅、あるいはアルヴヘイムの風の中で、ふとユウキの声を聞いたような気がして、心臓がどきんと跳ねることが何度もあった。  この頃、命というのはいったい何なのだろうとよく考える。  すべての生命は遺伝子の運搬装置でしかなく、己の複製情報を増やし、残すためにのみ存在する、という説が巷間を賑わしたのは何十年前のことだったろうか。その観点に立つならば、ユウキを長いあいだ苦しめたHIV、ヒト免疫不全ウイルスなどは純粋な生命そのものだろう。しかしウイルスたちは、ひたすらに増殖、複製を繰り返した挙句、ついに宿主であるユウキの命を奪い、同時に自分たちも死に絶えてしまった。  考えようによっては、人間だって同じようなことを数千年にわたって繰り返している。自己の利益を優先するために時として複数の人命を奪い、自国の安全を保障するために複数の他国に犠牲を求める。今も空を見上げれば、相模湾の巨大メガフロート基地から飛び立ちいずこかを目指す戦闘機の編隊が、春霞の彼方に白く雲を引いている。人間もいつかは、ウイルスと同じように自らが生きる世界そのものを破壊してしまう時が来るのだろうか? それとも、別種の知性との生存競争に敗れ、駆逐されてしまうのだろうか……?  ユウキが最後に遺した言葉が、耳の奥にいまも谺している。何を生み出すことも、与えることもなく——。確かにユウキは、自分の遺伝子を残すことなくこの世界を去った。  でも、と明日奈は思いながら、制服のリボンにそっと触れる。この胸の奥には、ほんの一瞬の触れ合いを通して、ユウキが深く刻みこんでいったものが確実に存在する。巨大な困難に臆すことなく立ち向かう“絶剣”の雄々しい姿、その魂そのものがしっかりと息づいている。それは、今日この場所に集まった百人以上の若者たちも同様だろう。たとえ時が少しずつ記憶を漱ぎ、思い出を結晶化させていくとしても、残るものは必ずあるはずだ。  ならば、命には、四種類の塩基によって伝えられる遺伝情報だけでなく、実体のない記憶、精神、魂を運ぶ機能だってあるということになる。ミーム、模倣子といったあいまいな概念ではなく、いつか遠い未来、精神そのものを純粋に記録できる媒体が出現することがあれば、もしかしたらそれこそがこの人間という不完全な生命の自滅を防ぐたったひとつの鍵となるのではないのか——。  その日がくるまでは、わたしはわたしにできる方法で、ユウキの心のかたちを伝えていこう。いつか子供ができたら、繰り返し話して聞かせよう。現実と仮想世界の狭間で、奇跡のように眩しく煌めいた一人の小さな女の子のことを。  胸のうちで自分に向かってそう呟き、明日奈はいつしか閉じていた目蓋をそっと開けた。  すると、前庭から建物の角を回ってこちらに近づいてくる人影が目に入った。あわてて指先で、目尻に滲んでいた雫を払い落とす。  女性だった。一瞬どこかで会ったような気もしたが、顔は記憶にはなかった。やや長身、黒のシンプルなワンピースにショールを羽織っている。肩までのストレートの髪は深い黒で、胸元の細い銀のネックレスだけが唯一の装身具だ。歳は二十代前半といったところだろうか。  女性は真っ直ぐに明日奈に向かって歩いてくると、少し前で立ち止まり、ぺこりとお辞儀をした。明日奈も慌てて立ちあがり、頭を下げる。顔を上げると、女性の抜けるような白い肌がまぶしく目を射た。が、血色の薄いその白さは、妙にかつての、長い眠りから醒めたばかりの頃の自分を思い起こさせるものだった。あらためて見ると、ショールから覗く首筋や手首は、触れれば折れてしまいそうなほどに細い。  女性は無言のまま明日奈の顔をじっと見ると、棗型の綺麗な目をふっと和ませた。口もとに淡い微笑が浮かぶ。 「明日奈さんですね。向こうとまったく同じ姿なので、すぐにわかりました」  落ち着いた、ウェットなトーンのその声を聞いた途端、明日奈にも相手が誰だか分かった。 「あ……もしかして……」 「はい。私、スリーピングナイツのシーエンです。本名は、アン・シーイェンといいます。初めまして……ご無沙汰してます」 「こ、こちらこそはじめまして! 結城明日奈です。一週間ぶりですね」  互いにどこか矛盾した挨拶を交わし、明日奈とシーイェンはくすりと笑いあった。左手でベンチに腰掛けるよう促し、自分もその隣に座る。  そうしてから、ようやく明日奈はあることに気付いた。スリーピング・ナイツのメンバーは全員が難治性疾患と闘う身であり、しかもターミナル・ケア、終末期医療が必要となる段階の病状なのではなかったか。このように、屋外を一人で出歩いて大丈夫なのだろうか……?  シーイェンは、明日奈のその懸念を敏感に察知したようで、こくりと小さく頷いて口を開けた。 「大丈夫、この四月でようやく外出を許してもらえるようになったんです。付き添いで兄が一緒に来てるんですが、表で待ってもらっています」 「……じゃあ、あの……お体のほうは、もう……?」 「はい。……私の病気は、急性リンパ性白血病というもので……発症したのは、もう三年前になります。一度は化学療法で寛解……あ、寛解というのは、体の中から白血病細胞が一応消えることです——したんですが、去年再発して……。再発後は、有効な治療法は骨髄移植しかないと言われています。でも、家族は誰も、白血球型が適合しなくて……骨髄バンクでも、ドナーになってくださる方は見つかりませんでした。もう、ずっと前に気持ちの整理はつけて、残された時間を精一杯生きよう、って思ってたんですけど……」  シーイェンは一瞬言葉を切ると、すっと視線を頭上の桜に向けた。つむじ風が、無数の花弁を巻き上げ、雪のように吹き散らしていく。 「——再発後、骨髄移植ができない場合は、サルベージ療法と言って色々な薬の組み合わせで寛解を目指します。新薬、治験薬も積極に使うので、副作用も厳しくて……あんまり辛いので、何度ももういい、って思いました。どうせ望みが無いなら、残りの時間を安らかに過ごせるような治療に切り替えて下さいって、何度もお医者様に言おうとしました……」  桜吹雪に揺れるシーイェンの髪が、ウィッグであることに明日奈は気付いていた。 「でも……ユウキと会うたびに、くじけちゃダメだって思いました。ユウキは同じ苦しみと十五年も闘いつづけてるのに、ずっと年上の私が、たった三年で何を泣き言言ってるの、って。そう自分に言い聞かせました。——ところが、二月頃から少しずつ薬の量が減ってきて……お医者様は、数値が良くなってきてるって仰ったんですけど、私は、とうとうその時が来たんだな、って思ってました。サルベージ療法から、QoL優先療法に切り替えたんだ、って。それは勿論、怖かったですけど……でも、ほっとしてもいたんです。ユウキの状態を聞いてましたから……ユウキと一緒なら、どこにだって行ける、そう思ってました。どこに行っても、私を守ってくれると……。おかしいですよね、ずっと年下の子に、こんなに依存して……」 「いえ……わかります」  明日奈は短く言葉を挟みながら、こくりと頷いた。シーイェンも微笑み、頷いて、続けた。 「——それなのに……一週間前、ユウキとお別れした次の日でした。お医者様が、私の病室に来て……完全寛解、つまり白血病細胞が完全に消えたから、もう退院していい、って仰ったんです。何を言ってるんだろう、って思いましたよ。いわゆる……家族と過ごすための一時帰宅なのかな、とか色々考えて……混乱が収まらないまま、その翌々日に、本当に退院してしまったんです。もしかして、病気が治ったのかもしれない、って思えるようになったのは、昨日あたりですよ。治験薬のひとつが、劇的に効いたそうなんですが……」  一瞬言葉を切り、シーイェンは泣き笑いのような表情でくしゃりと顔を歪めた。 「なんだか、まだ、実感はぜんぜんありません。なくしたはずの時間を急に返されても、戸惑うばかりです。それに……ユウキに……」  わずかに声が震える。目尻に小さな涙の珠が浮かんでいるのに気付き、明日奈も胸を詰まらせる。 「ユウキが待ってるのに、私だけ、ここに残ってて、いいのかなって……。ユウキや、ランさんや、クロービスやメリダと……いつまでも一緒って約束したのに、私……私は……」  それ以上は言葉が続かないようだった。シーイェンは俯くと、肩を震わせた。  ランさん、とは初代ギルドリーダーだったというユウキのお姉さんだと思われた。後の二人も、もう今は亡きスリーピングナイツのメンバーなのだろう。およそこの世界に存在する逆境のなかで、もっとも険しい境遇において結ばれた絆だからこそ、それはある意味では家族や恋人よりも強いものなのかもしれなかった。明日奈は、自分にいったいどんな言葉を掛ける資格があるというのだろう、と思いながら、それでも口を開かずにはいられなかった。  左手を伸ばし、ベンチの上に投げ出されたシーイェンの右手をそっと包み込む。骨ばった細い指は、しかし、確かな暖かさを明日奈の掌に伝えてくる。 「わたし……最近、思うんです。命は、心を運び、伝えるものだ、って。わたし、長い間怯えていました。人に気持ちを伝えるのも、人の気持ちを知るのも怖かった。でも、それじゃいけないって、ユウキが教えてくれたんです。自分から触れ合おうとしなければ、何も生まれない、って。わたしは、ユウキから貰った強さを、色々な人に伝えたい。ユウキの心を、歩きつづけられるかぎり遠くまで運びたい。そして……いつかもう一度ユウキと出会ったとき、たくさんの心をお返しできればいいな、って、そう思ってます」  つっかえながら、明日奈はどうにかそこまでを口にした。言いたいことは半分も言葉にできなかったような気がしたが、シーイェンは俯いたままゆっくり、深く頷くと、もう一方の手を明日奈の左手に重ねた。  顔を上げたシーイェンの、美しい漆黒の瞳は深く濡れていたが、口元には確かな微笑が浮かんでいた。 「ありがとう……明日奈さん」  囁き、シーイェンは不意に両腕を伸ばして、明日奈の背に回した。明日奈もその華奢な体をしっかりと抱きとめる。耳もとで、言葉が続く。 「私達、明日奈さんにはとても感謝しているのです。お姉さんのランさんが亡くなったあと、ユウキはお姉さんの代わりに、ずっと私達を励まし、支えようと頑張ってくれました。私達も、それに甘えてしまって……辛いとき、挫けそうなとき、皆がユウキにすがって力を分けてもらいました。ですが、何を今さら、と言われるかもしれませんが……私はユウキが心配だったのです。彼女の心は、誰が支えればいいんだろう、って。ユウキはいつでもにこにこして、辛い顔ひとつ見せませんでしたけれど……あの小さな背中に、すごくたくさんのものを背負って、いつかそれがユウキの心を折ってしまうんじゃないかと……。——そんなとき、あなたが現れてくれたのです。明日奈さんと一緒にいるときのユウキは、とても楽しそうで、自然で、まるで飛ぶことを思い出した小鳥のようでした。そのまま、高く高く、どこまでも舞い上がって……私達の手の届かないところまで……行ってしまいましたけど……」  シーイェンはそこでしばらく言葉を切った。明日奈の心のスクリーンにも、小さな鳥に姿を変えて、遥かな異世界の空を舞うユウキの姿が一瞬映った。  体を離し、シーイェンは含羞むように少し笑った。指先で、涙の粒をそっと払い落とす。すう、と一回呼吸をして、はっきりとした声でまた話しはじめた。 「——実は、私だけじゃないんです。ジュンも……難しいガンなんですが、最近使い始めた薬がずいぶん効いて、腫瘍が小さくなってきてるそうなんです。まるで、ユウキが、まだこっちに来るのは早いって言ってるみたいだね、って二人で話しました。スリーピングナイツがもう一度揃うのは、かなり先のことになってしまいそうです」 「……そうですよ。次こそは、わたしも正式メンバーにして貰う予定なんですから」  明日奈とシーイェンは互いの顔を見て、ふふ、と笑みを交わした。揃ってもう一度、薄桃色に霞む空を見上げる。穏やかな風が、背後から吹き過ぎて髪を揺らした。ふわりと二人の肩を包んでから、背中の翅を羽ばたかせて高く飛んでいくユウキの姿を思い浮かべ、明日奈はそっと目を閉じた。  そのまま、何分そうしていただろうか。近づいてくる新たな足音がふたつ、静謐な沈黙を終わらせた。顔を前に戻すと、明日奈と同じ色の制服を着た少年——桐ヶ谷和人と、黒の礼服姿の倉橋医師が歩みよってくるところだった。  明日奈とシーイェンは同時に立ち上がると、ぺこりと挨拶をした。同じように頭を下げてから、和人が明日奈を見て言った。 「ここに居たのか。邪魔しちゃったか?」 「ううん、大丈夫。でも……あれ? キリト君と倉橋先生は知り合いだった?」 「ああ……最近だけどね。例の通信プローブの件で、メールのやり取りをしてるんだ」  そうなんですよ、と倉橋医師が言葉を引き取る。 「あのカメラには実に興味をそそられましてね。医療用NERDLES技術の中に活かせないか、相談に乗ってもらっているのです」 「そうだったんですか。……あの、そう言えば……」  ふいに明日奈はあることを思い出し、医師に向かって尋ねた。 「メディキュボイドのテストのほうは、どうなるんでしょう? 誰かが引き継ぐんですか……?」  それを聞くと、医師は頬を緩め、大きく頷いた。 「ああ、いえ、テストとしてはもう充分すぎるほどのデータは得られているのです。今後は実際の製品化に向けて、メーカーとの協議を詰めていくことになっています。もうすぐ、安さんや他の皆さんも、メディキュボイドを使えるようになるかもしれませんよ……」  言葉の後半はシーイェンに向けてのものだったが、そこまで言ってから、倉橋医師は一瞬目を丸くしてから慌てたように続けた。 「いや、これは失礼。最初に言うべきことを忘れていた。——安さん、退院、ほんとうにおめでとう。木綿季くんも……どんなに喜んでいるか……」  差し出された医師の手をぎゅっと握り返し、シーイェンは大きく頷いた。続けて、すでにゲーム内で知己となっている和人とも握手を交わす。 「ありがとうございます。メディキュボイドは使わせてもらえそうにないですが……でも、ユウキが残してくれたデータが、たくさんの、病気と闘う人たちの助けになると思うと……とても、嬉しいです」  シーイェンがそう言うと、医師は何度も頭を上下に動かした。 「本当に。——あの機械をテストした最初の人間として、木綿季くんの名はずっと残ると思います。初期設計の提供者と並んで……何か凄い賞を贈られてもいいくらいです……」 「多分、そんなもの貰ってもユウキは喜ばないですよ。『食べられないしなあ』とか言いそうです」  シーイェンの台詞に、全員が笑った。和やかな笑い声が収まってから、明日奈はふと倉橋医師の言葉の一部が耳に残っているのに気付き、それを繰り返した。 「あの……先生、さっき、初期設計の提供者……と仰いました? 設計したのは、医療機器メーカーではないんですか?」 「ああ……ええと、ですね」  医師は記憶の底を浚うように眼鏡の奥で目を細めた。 「もちろん、試験機の開発そのものはメーカーが行ったんですが、機械のコアとなる部分、超高密度信号素子の基礎設計は、外部からの提供があったのです。たしかこれも女性で……海外の大学の研究者だったはずですよ。日本人ですがね……ええと、名前は……」  そのあとに医師が告げた姓名は、明日奈にはまったく聞き覚えのないものだった。シーイェンも同様なようだったが、ふと和人の顔を見たとき、そこに浮かんでいる表情を見て明日奈は息を呑んだ。  和人は肌を蒼白にし、まるでありえない何かを見たとでも言うように、視線を虚ろにしていた。唇が二度、三度、小さく攣る。 「ど……どうしたの、キリト君!?」  慌てて明日奈が声をかけたが、和人はしばらく沈黙を続けていた。やがて、唇から掠れた声が漏れた。 「俺は……その人を、知っている」 「え……?」 「会ったこともある……その人は……」  和人はふっと明日奈の目を見た。その黒い瞳は、時空間の壁を突き抜け、どこか異世界を覗き込んでいるようだった。 「その人は、ダイブ中の……ヒースクリフの体の世話を引き受けていた人だ。彼と……同じ研究室で、一緒にNERDLES技術の研究をしていたという……つまり、メディキュボイドの基礎設計の、本当の提供者は……」 「…………」  明日奈も言葉を失った。シーイェンも、倉橋医師も、訝しそうな顔で首を傾けていたが、何を答えることもできなかった。ただ呆然と、目の前を通り過ぎていく桜の花びらを視線で追った。  不意に、明日奈は、“流れ”を感じた。  この現実と名づけられた世界が、単なるひとつの相にすぎず——。それら世界が無数の花弁のように寄り集まって構成された更なる上位構造が存在し、そして今、すべての世界を包み、うねり、流れていく巨大な力が、ゆっくりとその形を現そうとしている——。  明日奈は両手でぎゅっと自分の体を抱いた。一際強く吹いた風が、周囲に漂う花びらを全て、遠い空へと運び去っていった。 -------------------- 間違いと思われるため修正(行数は論理行) 1185行 一行は十八層に転移した。→ 一行は二十二層に転移した。 1715行 今度十八層のアスナの家で → 今度二十二層のアスナの家で 1781行 十八層、森の家の → 二十二層、森の家の 1847行 アインクラッド十八層にこの家を買い、→ アインクラッド二十二層に〜 -------------------